マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

20220720

今の会社に不満があれば転職すればいいという言説に対する違和感と、日本社会に対しての様々な不満が嫌になったら他国で暮せばいいという形に相似形を見た。僕が感じている違和感は、移動できる妬み嫉みじゃないとは信じているもののよく分かってない。フルリモートで夫婦で拠点移動できるし、言語的にも英語ならまぁなんとかなるだろうし。でもそういうことじゃなくて、良くしていく活動を放棄するというのは良くしていく活動をしている現地の人の努力にフリーライドしてウマい汁だけを啜っている気がして、その残念さにシュンとしてしまう。昆虫や動物、植物は互いに助け合う機構を上手く作っているのに、同じ人間ですら上手くいかないのは、もうちょっとなんかあるじゃろという期待をしている。自分にそれができるとも信じている。結論は無いけど、そう思った。

読書感想文:トーフビーツの難聴日記

はじめに

Tofubeatsはかなり前から知っている。僕の大学時代の親友Kが今や死語になりつつあるB-BOYだった。見た目だけでなくラッパーで、今でも曲を出している。僕の日本語ラップの知識は全てKからいただいたものだ。毎日Kの家で一緒に過ごしていた。

Kはネットでラップを公開するという今では当たり前のことを15年前にやっていた。その掲示板にいたのが当時高校生のtofubeatsだった。高校生のときのトラックを今聞くと荒削りだとは思うけど、大学生当時の僕はめちゃくちゃカッコいいと思った。つまるところ、15年間ファンをしているということです。彼が作った好きなトラックの曲は風玉a.k.a. らっぷびと「一人っきりのノイズ」と tofubeatsの「No.1 feat G.RINA」で、前者は死ぬほど聞いて、後者はMVを見まくった。

本全体の雑な感想

とりあえず、本の感想に。
日記の形を模したエッセイ集なのかなと思っていたが、開いてみると日記だった。「難聴」も日記を出版するに当たってのきっかけであって、難聴がいろいろなハプニングを呼び込むのかと言われるとそんなこともない。序盤の早いうちにいつの間にか治り、すぐに焦点からは外れていく。

なんじゃいと思いつつも、新譜の「REFLECTION」が作られる過程で起こる振幅がtofubeatsにどう肉付けしていくのかを読めたのはよかった。突発性難聴やコロナが始まる序盤から、世間が落ち着き始めてイベントにも参加し、以前の世間に戻るにつれて文章も少しポジティブになっているように感じた。
犬を飼い始めてからは犬のことがたくさん書かれる。もしも子どもができたら子どものことばかりが書かれていくだろうことが手に取るように分かる。

この書籍に対して読んで良かったなぁと思うのは、僕の中に人の日記を読みたいという欲望が根底にあるからだ。世間に公開されるために書かれて抑制された日記ではあるものの、日記を読めるのであれば万々歳だ。

ここから先は思ったこと。

差し入れ

差し入れをめちゃくちゃ買ってるし、いろいろと誰かに貰ってる。この贈与のペースがすげー良いなって思う。ザビビやツビズの頃のラップ掲示板で売れたのは、15年を振り返ってもtofubeatsただ一人だと思うけど、こういうリアルコミュニティへのマメさは間違いなく寄与してるのではと思う。もちろん曲は図抜けてたけど。
コロナ前には年間100本のイベントに出ていたと書かれていたし、もっと頻繁にしていたのだろう。出不精の僕ですらリモートワーク前には割と色んな人に会い、お土産を買っていったり飲み会に参加したりしていた。トラックメイカーやイラストレーターのような自分から湧き出す必要があるクリエイティブな人こそ色んな人やモノと出会い、自身を深めているように感じる。

インとアウト

そして、インプットとアウトプットの量がすごい。しかも、アウトプットがほぼ全てマスに向けて作られている。
そこまでアウトプットを求められたらそりゃあそれ以上のインプットをしなけりゃならないよなと思うけど、それにしても曲も文章も映像も口から出る言葉もアウトプット沢山してるんだなーと。恐ろしい。この本を読む前に、以下のリンクの記事を読んだけど、学生時代の読書習慣が素晴らしいなーと感心する。我が子にも読書とアウトプットの習慣をつけさせてあげたい。

ヒップホップ系楽曲の権利関係は面倒くさいんだなー
奥さんのこと好きなんだろうな、尻に敷かれ気味なのかな
ネットラップ初期に知った人の結婚をこの本で知ったのは笑った

とか

中身で気になった記述

4箇所ほど気になるところは付箋を貼っておいた。その中の一つ。

リアリティを出すために固有名詞をいっぱい羅列する、みたいな手法

この手法が好きではないのは分かる。僕もそこまで好きではない。最近ちょいバズりする麻布競馬場というTwitterアカウントツイート小説的なやつが肌に合わないのはそのせいだろう。

知っている固有名詞を出せば出すほど卑近に感じられて、なんとなく共感や想像ができる状態に持っていくのは、僕からすると特に面白さを感じることはできない。というか近すぎてパーソナルスペースに入り込まれる感覚に近いかも知れない。また、意図の無いテキスト上のフォーカスは、無意味なのでよくないという刷り込みがある。伏線となって回収されれば良いのかというとそういうことでもないのだが…。

tofubeatsが見た映画としては、その固有名詞で惹かれ合った二人がその固有名詞の楔が無くなったときにどうなるかというのがテーマの一つであったっぽいので、これから見ます。

おわりに

大豆田とわ子は最高だったよ。

書くことが無い。書くことがあるときは大体子どもを寝かしつけた後の時間で本を読んだりやゲームをしたりしている。最近は子どもを寝かしつけながら数独をしてたら、そのまま23時とかになってるので困る。数独のせいでもあり、寝付きが良くない子どものせいでもある。数独は大変面白く、すぐに熱中してしまうのだが、何かを生み出している感覚、インプットをしている感覚が全く無いのが良くない。感覚どころか確かに何も残らないのだが。老人の遊びだと友人には言われたが、老人になったら一生やってるかもしれない。最高難易度で大体一回30分くらい掛かるので、毎日8時間仕事のようにやってるとして16問、年間365*16の5840問も毎年解くのか…。やってないという確信が無い。やってそうという恐怖だけがにじり寄ってる感覚を覚える。こうやって時が過ぎるのだけを待ち、老いていくのだろう。

 

今の積ん読は以下の2冊

健康うんちは先進国の印

最近子どもが胃腸炎になったり、それが僕に感染ったりしてお腹の調子がすこぶる良くない。そしてお腹に違和感があって、食べられないということが続いている。とはいえ、下しているわけじゃなく、出ない。今日は今朝から消化器科に行ってきて、薬をもらった。薬をもらうと胃腸の調子が良くなって、健康なうんちが出た。衛生環境・栄養状態の悪い国の人は下痢が普通だという話を見た。はだしのゲンの世界の人間が下痢便を人に向けて噴射するのに違和感があった(そんな都合よく下痢便が出るのか?と)が、実は当然らしい。バナナうんちは日本や先進国だけの特別なものだそう(ソースはTwitterだけど結構前なので出せない)。もしも悪い環境の人間にDr.スランプアラレちゃんを読ませて巻きグソという健康うんちの記号を見せたらどういう反応、何と解釈するんだろうと流れていったうんちを見ながらふと、かの国の子どもたちは笑うのか気になった。

20220622

先日のブルーノ・ムナーリの流れで社会との関わりとクリエイティブについて書いたが、また別の本にて似たような記述があった。21世紀の道徳という最近出た本で、400ページほどある中の343ページ目。仕事とアイデンティティのパラグラフで、ノルウェーの哲学者のラース・スヴェンセンの言葉を引用しつつ、こう書いてある。

ユーダイモニア論によると、自分の人生における目標や幸福とは、徳を実践する活動を通じて「自分はどのような物事を大切にしたいのか」などと自己に関する理解を深めることによって、その形を発見することができる。(中略)その活動は、ランニングや押しピン投げのようにひとりでおこなえる自己完結したものではなく、自分の外側にいる他人や社会に関わるものでなければならない。ひとり自室にこもっておこなう創作行為ですら、その成果を他人に見せて評価をもらったり相手に影響を与えたりすることが、その意義の大部分を占めているのだ。

人生の目標や幸福がイコールクリエイティブとは思わないが、「どのような物事を大事にしたいのか」を示しているものであるとは感じる。そして、アートやクリエイティブはそもそも社会と繋がっていて、徳を通じて自己と様々な形で接続している。徳というのは前記事の社会問題ともとれるかもしれない。