マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

何を相手に期待するかを自己責任としたい

 

 何故かこの時期に「期待」について考えることになってしまうようだ。まだ三年目ではあるけど、不思議だ。

 季節的なものなのだろうか。なんJ民の言う「なんか雨がよく降る時期ってあるよな」という世紀の発見と同じく、これも俺にとっては発見だがみんなにとっては既知の出来事なのかもしれないが。「なんか期待について考える時期ってあるよな」という宣言をここにしておきたい。

 

 今回なぜまた期待について考えたのかといえば、会田誠の講演会でこれは環境型セクハラどうのこうののニュースを見たから。

 あとズイショさんの記事を読んだ。

 本人はブコメで「ネタバレする義務が発生するのはつまらない」と仰っていて、まぁ分かるわと思った。なお本文は各種ちんこを叫ぶところしか読んでいない。アルマジロのちんこは尖ってると僕も思う。

 

 結局のところ、大学や会田誠に期待するところはなんなのさという話では無いだろうか。僕ならば会田誠の講演には、エログロの話と制作の交わりを聞きに行くところだと少なくとも思う。彼からそれを差っ引いたときに残るものが居酒屋でおっさんから聞く生徒に向けたハラスメントの話(あくまで想像です)くらいしか無さそうだし。

 この女性はおそらく会田誠ではなく大学側に期待をしたのだろう。大学の社会人講座だから全方向に考慮した何かを出してくれるだろうと。会田誠を知らずに。そこのギャップが大きかったが故に起こった事故だと思う。

 環境が何かを規定していると期待していた。現在の新宿で始まる物語は必ずバスタ新宿で出会いと別れが生まれるとか、渋谷から始まる物語は若者からスタートするだのそういうドラマツルギー的な因子がある。CLAMPのマンガだったら東京タワーが出てきてそこで始まり最終決戦が行われるよねと。もしもそこにギャップがあったら、物語として期待を超えることもある。が、逆に物語に破綻が生まれることもあり、それは内容次第ではある。

 場が物語を規定すると思いきや、その場の人が物語を規定したという、最初の期待とは違った。セクハラしてもいい場があるとは言わんけど、どこに力場が発生するかを見過ごしていた彼女にも落ち度はあるわけで、大学側が丸々背負い込む話では無くあってくれというか言論や表現の場として大学が存在してほしい。大学が会田誠を招聘するなってこともおかしな話だし。選ぶ側がちゃんと選び、その上で何かハラスメントやおかしいことがあったら大学ではなく、その講師を訴えるべきだと思うんだよなぁ。江頭2:50を社会人講座に呼んだらどうなるんだろう。

 

 期待のベクトルが違っていた場合に、大きく反対方向に振れることが多々あると思う。100の期待を裏切られたときに100*(-1)=-100という振れ幅。やはり相手に期待した方が悪いと僕は思う。人はそれでも期待をし続けてしまう。そしてまた、今回の件で、どこの力場が発生するのかを見誤ると期待は簡単に裏切ってくることも分かった。

 どこに期待をし、何に期待をし、自分に期待をして、何が返ってくるのかをコントロールしないと、自分を傷つけてしまう。

動機は自分から生えてくる

 

 昨日、友人からこの記事を受け取った。衝撃だった。はてブでは記事が出た当時800近いブクマを得ていたことを知る。ほんともうめちゃくちゃ長いのだが読んでほしい。

 

politas.jp

 この記事には沖縄の2018年選挙を通じて、沖縄県民のメンタリティ、そのせいで彼らが抱えている本当の問題、そしてそれが日本の縮図であり、世界から見た日本と全く同じ構図であるということが分かる、と書いてある。

 

 このうち、上からおよそ7分の2くらいの場所にある「自尊心」以下それから半分くらいまでが今自分が置かれている環境や考えていることとリンクしてズシッと重かった。

自尊心が低い人は、失敗(正確には、失敗そのものよりも、失敗によって人から軽蔑されるリスク)を恐れ、挑戦を避ける傾向がある。失敗を恐れる人は創造的であり得ない。自尊心の低い社会から、イノベーションは生じ得ない。

自尊心の低い人は、他人の出方によって自分の行動を決めるから、自分らしく生きることが難しい。挑戦を避けて成功を逃す一方で、人の成功を羨み、成功者の足を引っ張り、現状維持を好む。体面を保つためには不正をしやすく、他人への関心が低く、被害者意識が強く、暴力的で、幸福度が低い 。

 

 寝る前に、自分に自尊心が芽生えたのはいつだろうと考えた。

 10代、勉強しなくてもある程度できた時点で、自尊心に似たなにかは既にあったと思う。でもそれは決して自尊心ではなかった。おそらく無知から来る万能感だろう。案の定大学受験前期試験で落っこちて、旧帝大から後期で東京の国立に行くことになる。勉強を真面目にしてないから当たり前だ。お前はそこまで頭が良いわけじゃないし、容量もいいわけじゃない。

 20代、大学では勉強をしていた。単位を取るために勉強が必要な当たり前の学校で、周りと一緒に当たり前に勉強していた。外の大学と交流したのが今に役立っているが、時流という時代で濁った水の圧に負けて生きていたように思う。生きていたのか、やるべきことから目を伏せていたのかは知らない。大学卒業も自分が何者かは知らず、なんとなく気になったベンチャーに入り、なんとなくできそうだという社長のイメージから新規開発の部署に入った。10代の頃にあったはずの万能感は特になく、無我夢中で目の前の仕事をこなした。

 多分この辺からやっぱり自分がやりたかったこと、好きだったものを考え直すようになった。ちょうどこのブログを始めた2012年だったか13年だったかそのあたり。そして転職を決意、転職活動を始めた。2社を受け、両方受かった。

 

 おそらくここだ。ここで自尊心が芽生えた。あ、俺って認められるんや、って。

 

 自尊心が芽生えてからは何故かトントン拍子にうまくいった。周りには25歳で成功している人なんて腐るほどいるが、彼らと比べることがなくなった。自分だけを見て、自分を見られるようになると他人を、そして社会を見ることができるようになった。そして元カノと別れることになり、再度自尊心にほころびが見え始めるが、ちょうど私生活で遊んでくれる友人が仕事を通じてできたタイミングでもあり、なんとかなった。彼らは僕のありのままを受け入れてくれた。本当にそれが嬉しくあり、僕も彼らに対してなんとかしてあげたいと思うようになった。彼らには感謝してもしきれない。

 自分をはじめから認められる人はそうそういないのではないだろうか。順序として他人に認められて、それから自分を認められるようになる。まずはじめに親、親戚、友人、友人の親と徐々に輪を広げていく。が、僕の場合はおおよそそこで止まってしまった。そこから先社会へいくまでに相当な時間をかけてしまった。このおよそ20年は損失かもしれない。失われたの日本の20年はここにあったのか。

 

 そして今、結婚もしたり、したが、それよりも、その直前に仕事で2年ほどマーケティングブランディングに打ち込んだことが今の仕事のマインドに影響を与えている。ビジョン・ミッション・バリューの考え方だけでも大きく変わった。自分の人生にビジョンはあるのかと問いかけ、再定義した。

 自尊心が低い人は世の中にたくさんいる。それは悪い状態というわけではないが、仕事をやるうえでは、僕は一緒に仕事はしたくない。自分がなんのために仕事をしているのか、その会社に所属しているのかの理由がない人間は、生産性が低いからだ。組織の大小は関係なく、働きアリの法則のように必ずいる。

 人間はなにかしら理由付けしてあげないと、行動する動機が弱い生き物だ。マーケティングの教科書でもで書いてあることだ。僕も休みの日に何もなければ何もしないような人間だしよく分かる。仕事において動機は組織のマネージャーが与えるものではなく、自分から生えてくるものだ。しかし、マネージャーは他人を認めてあげることはできる。部下をコントロールするのではなく、認めてあげることがマネジメントなんじゃないだろうか。

 スタートアップで働いている人が精力的に見えるのは、なんのために仕事をしているのかが明確だから。自尊心があるのでリスクを取ることができるのだ。動機は自分から生えてくる。

くだらない嘘

 

 聞いた瞬間に真実か分からない嘘をつくやつがいた。もう10年以上前のことだ。そいつがつく嘘は「おばあちゃんが北海道出身(実際は石川)」とか「身長は181cm(実際は184cm)」とか「靴を去年買った(実際は半年前)」といった毒にも薬にもならない嘘。別に誰も傷つくことはない嘘。すぐに嘘だとバラす嘘。嘘をついた瞬間に嘘だと分かる顔をしてしまう嘘。

 僕もたまに対抗して分からない嘘をついたりした。割と難しい。嘘の内容は、時間を伸ばしたり血縮めたり、場所を移し替えたり、名前を替えたりといったパターンが多かった。なんのために付くんだろうと考えたが、結局分からなかった。分からなかったついでに「どうしてこんな嘘をつくんじゃい」と聞いてみたら、本人も明確な意図があるわけじゃないことも分かった。この返答が嘘だと思う方もいるかもしれないが、ここで嘘をつくのは真実かどうかなんて顔を見ればすぐ分かることなのでただの邪推だ。

 

 そいつとはもうずっと仲が良くて、大学時代の親友を一人挙げろと言われると、そいつが真っ先に挙がる。未だに年間数回は会って、ご飯を食べる。いつのまにか嘘をつかなくなっていた。それが寂しいかと言われると、そうでもない。というかつい最近までくだらない嘘をついていた事実をさっぱりと忘れていたくらいだから。

 そいつはくだらない嘘をつけなくなったんだと思う。僕らが仲が良くなったからでも、信頼しているからでもない。嘘をついても、顔に気づけなければ時間がかかるかもしれない。あの頃は毎日会って、毎日部屋に入り浸っていたから気づけた機微があった。そう思うと、ただただもったいない。僕らは実家の母親と父親にあと何時間一緒にいられるのか。それを計算したことはあるだろうか。もう約一ヶ月しかいられない。それと同じことが、僕とそいつの間でも起こっている。両親よりももっと短いだろう。そう考えると、嘘よりももっと知ってほしいことがたくさんあるだろう。10年以上前、最も長く一緒に過ごした時間でしかつけないくだらない嘘だった。

 

 僕は昨年末に結婚したが、図らずもそいつも昨年末に結婚した。僕の二日前だ。そいつは新たにできた家族に対して、ずっと一緒にいる家族にたいしてくだらない嘘をついていると、僕は確信している。

最近感じた “言葉” 関係のこと

 

普段は一緒に仕事をすることは絶対にない同僚と、こないだランチを食べたときに気づいた。

汚い言葉を使われると、自分の中の語彙センサーが反応し「あっ、こいつヤベーやつだ」と判断してしまうことに。つまり自分も周りからそう思われている可能性が高い。特に初対面の場合、そう思われる確率は「コーラを飲んだらゲップが出る」くらい高い。ああ、また汚い言葉を使ってしまったようだ。

なるべく自分の口から出る言葉を、浄化フィルターを通した言葉にしたいのだが、文字ベースでない場合は推敲する時間が0秒に限りなく近いためになかなか難しいので、少なくともメールやツイートなどではキレイに浄化した言葉遣いでやっていきたい。

 

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“サービスデザイン” の説明をするときに “サービス”と“デザイン” の言葉を極力使わないというようなある種の優しさがないといけない。言葉の定義が互いに食い違う場合、必ず僕とあなたが今見ているもの以外の場所から言葉を取ってこなければならない。時間的にも空間的にも制約を無視して、言葉をあらゆるところから引っ張って相手に伝える義務がある。それは僕ら人間が言葉を発して、コミュニケーションを取れるようになった、我々が猿の時代からの課せられた義務だ。

 

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「高度デザイン人材」を育てることを経済産業省が推進している。

そのようだが、例えば「高度」がいるなら「低度」がいるのか、私は「低度」なのか、「低度」ではいけないのかなどの他人との比較でできあがる言葉は気をつけなければいけない。

 

そういえば、過去に似たような問題を話し合った経験がある。

「異性・同性愛」を表す言葉を使用するときに何を使用するのかというお話だ。

「normal」は正常ではないことが異常なのかを暗に示し、「Straight」はTwistedであることが、人を愛すことは誰しもが真っ直ぐではないのかなど、そういう意味を示す、暗に示してしまう。

それらを比較なき言葉として、おそらく誤解なく使えるのはheterosexualとbisexualとかだと思うが、単語としての成り立ちが自立しているかどうかは意識しないとあらぬ誤解を生んでしまうことがある。

 

僕も気をつけなければと日々思っている。

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年末のこと

 

最近書くことがないなぁと思ったので、報告を書きます。

12月を人生の転換期とするべく、イベントてんこ盛りにしてきました。

 

1. 転職しました

 苦しい思いをした4年半前、あーもう前回転職してそんなに経ったのか。その当時のブログを読み返すと「役割は捨て、一人前になるための次の場所を選んだ」と書いてあって、30歳になった僕から彼へ言いたいことは「その通りだったよ」である。

 一人前になった僕は新しい会社でバリバリと働いている。給料もグンと上がって、あのとき捨てた役割をもう一度背負って仕事をしている。役割を背負うことは重圧に感じるかもしれないが、意外と軽い。それは前職でやってきたことが、とても重かったからだ。ドラゴンボールのピッコロが重い道着を外すように、今の会社では身体が軽く動く。その後フリーザにやられてしまうが、そういうイベントだってあってもいいだろう。オラよりつええやつに会いてぇと言う悟空の気持ちも分かってきた。

 

 頑張ります。

 

2. 引っ越しました

 渋谷へも新宿へも自転車で15分程度の距離の、非常に高条件の立地に住んでいたのですが、引っ越しました。

 前に住んでいた場所の大家さんは、僕の母親の小さい頃の近所に住んでいたお姉さんで、母と仲が良く東京に嫁いでからもずーっと連絡を取り、すでに半世紀近く親戚付き合いのような形をしていた。僕が生まれたときは、兄と姉を預けていたらしい。僕が大学に入ったときにも、当たり前のようにお祝いをいただいた。お互いにそういう付き合いをしていたそうだ。僕から報いるには「善良な住人として部屋に住み、毎月欠かさず家賃を払い続けること」だと思ったので、3年間ほど住まわせてもらった。持つべきものは「東京都心に土地を持つ友人」なのだと実感した。資本主義社会の荒波に乗るのは難しい。

 新しく住み始めた場所は、僕が大学に通うためにはじめに引っ越してきた調布市だ。前の家よりもずっと広く、やっと家具家電が揃ってきて毎日暮らすのが楽しい。お金はものすごい額がぶっ飛んだけど、それも仕方ないと諦めて、日に日に変わっていく家を楽しんでいる。ダイニングテーブルとソファと冷蔵庫が来たら、当分何も買わないぞ。

 

 頑張りました。

 

3. 結婚しました

 引っ越しは、同棲するためでした。およそ2年ほど付き合って、婚姻届を出しました。

 前の彼女は9年付き合っても、結婚したくても、しなかったのに、サクッと決めることができたのは不思議だった。なんというか、タイミングと時の運が完全に合致した印象。イマイチ信用しきれなかった部分も、今の妻にはなく、平然と生きていける気がした。まぁ、世の中そんなもんだという話をそこかしこから聞くので、今の楽しい時間を過ごしていきたい。

 

 頑張ります。