マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

20181025

 

1. ボトムアップの理想

 例えば、忍たま乱太郎で学園のミッションとして「健全な身体を育てる」があった場合、それは学園長から言い続けるのではなくて、食堂のおばちゃんが「お残しはゆるしまへんで~」を口酸っぱく毎日言っていくというのが正しい組織としてのあり方なんだなと思いました。

 

2. 草野球のことを好きな理由

 先日「どんな会社がいい会社だと思う?」という質問に対して「成長させてくれる会社だと思います」と即答した。社員はもちろん、引いてはサービスを通じて社会を成長させる。人類をアップデートさせることができる会社はとても良い会社なんだろうと、用意していたかのように滑らかに口からこぼれた。自分でも驚いた。成長できない辛さをここ数年味わった。その反発なんだろう。

 社会はその人が持っているポテンシャルではなく、その人ができることを求める。年齢を重ねる度にその疑いが確信を帯びて近づいてくる。まだ信じ切ってはいない。それが若さゆえなのか希望を持っているからなのか、そのジャッジは誰かに委ねる。その社会の中で、僕の足掻きの一つが草野球だ。草野球は楽しい。そして、やればやるほどに成長させてくれる。できなかったことができる楽しみを仕事外に持っていることで救われている。

 

20181023

 

1. 相手に伝えること

考えたことを言葉にすること - ①

①よりも具体的かつ詳細な例示、物語にするとよりよい - ②

②よりも絵にするとよりよい - ③

③よりも実際に体験できればよりよい - ④

 

①は相手に解釈を委ねて伝えられる

②は時間の流れと感情を制限して伝えられる

③は主体以外の表情が受け取ることができる

④は主体と感情を重ねることができる

 

2. カープ女子

 僕はずーっと広島カープファンなんだけど、ずっと信じていなかったことがある。4年ほど前にカープ女子って言葉が流行語になったと思う。確かに球場に行ったり、野球中継で抜かれる人を見ると今までよりも女性の応援が増えてるなーという印象はありつつも、メディアに載るような可愛らしい人はおらんじゃろうというのが個人的な見解だった。

 が、しかしこないだ辛口春雨スープを提供しているお店で、鼻水と汗を垂らしながら1.5辛の春雨を啜っていたところ、女性二人組が隣の席に座ってきた。オフィスが渋谷から移ったことによって、なんとなくオフィスレディ美人指数が上がったように感じてはいたが、かなり美しい人が座っていた。おおラッキーと思いながら、身体の穴から汁を吹いていた。

 大きい声で喋るので勝手に聞こえてくるのだが、明らかに野球の話をしている。ほう、日本シリーズ、ん?カープ?新橋のカープファンが集まるお店…?極めつけは「私、引くほどカープ応援しちゃうよ」とか言ってるんですよ。わーこれが幻のカープ女子かぁ!こんなところに生息していたのか…。本当にびっくりして、チラチラと見ると、確かに頼んでいる春雨も赤いし、スマホケースも赤い!これは本当にカープ女子なんだ。俺は真実に迫った!という気持ちになりつつも、出身が群馬ということを言った瞬間に「ああ、まだファン歴数年のひよこなんだな…」と勝手に解釈してお会計を済ませためんどくさいカープファンのお話でした。

20181018

 

書くことがまとまらないので、最近気づいたことをいくつか書く。

 

① ビジョン・目的が大事だということ。

仕事に紐づけて言えば、すべての施策は会社が存在する目的に沿って実行されるべきである。そんなことをクライアントには口酸っぱく言っていたような気もするのだが、実際自分が仕事をする目的や意味に照らし合わせてみると、実行できていないことがほとんどだ。

 

② 他人を巻き込まないと成長できないこと。

自分の中でなんとなく理解したことは、実は理解できてない。誰かに教えてやっと理解が深まる。前々から知っていたことだけど、実行すると「俺は理解している!」という実感値がものすごい。感動する。

 

生ゴミは外気に触れさせると良い。

サンマを食べたあと、そこから生臭い臭気が漂ってしまう。部屋を締め切ってしまうと、いくら空気清浄機と脱臭剤のダブルパンチをしても、臭いが勝つ。生ゴミの強さ。そこで、生ゴミを換気扇は無いが、窓のある場所であるトイレに置いた。すると、臭いがしないのだ。いい発見をした。理由は知らないが、やはり空気の広さと外気温が下がってきたからだろう。よかった。

 

④ 週休三日でも意外といける。

通常の祝日と、ペットの手術などでここ5週間ほど毎週週休三日で動いている。今週も月曜日に休みをとった。しかし、自分の仕事が今そこまでパツパツではないためか、普通に働けている。働けていると怠けているの境界は曖昧ではあるが、勤務態度に対して文句は言われていない。三連休を毎週のように取っている同僚も他にいて、彼女らも意外といけてるという感覚があるらしく、これがデフォルトになってほしい。

 

⑤ 僕はストーリーテリングって言葉が嫌い。

これはただ自分が嫌いなだけで、悪い事とかは思ってない。何かテーマを伝えるために、ストーリーがあれば受け手側がより分かりやすくなるので、テーマに沿った例え話や経験談を言いましょうね。ということなんだけど、大袈裟すぎる。エッセイってそういうものだし。長ったらしい単語と単語をくっつけた横文字にして、格好をつけすぎている。だから嫌い。

サンマの肝

 

生のサンマを買った。

いつだったか、不漁で高騰してたのを毎年思い出すせいで台風が過ぎ去って、

涼しい風が吹くようにになっても値段すら気にしていなかった。

 

買った。だってYouTubeの芸人がサンマを食べる姿を見て食べたくなったから。

食べる姿で美味しそうだと感じるのは、食らうのが素人だろうが玄人だろうがなんら関係ない。

ネコが食べていても食べたくなるだろう。ちゃおちゅーるは例外だ。

 

くちばしは黄色いのが良いらしい。

サンマの下唇のことだ。

大根おろしは既に擦ってパックしてあるのを買った。

最近は便利なものが売っている。

さすがコンビニエンスストア、コンビニエンスだ。名前に商品も負けてない。

「サンマとおろし」があるだけで100点満点中95点は取れる。

あとの5点はすだちだが、残念ながらスーパーに置いてなかった。

だが合格には十分だろう。これでサンマの東大に合格だ。

 

いつもは干物しか買わない。干物が美味くて好きだから。

でも、生サンマは今の時期しか食べられないから仕方ない。

干物のコンフォートゾーンから抜け出す必要も人生には必要だ。

生は中までしっかり焼かないといけない。干物よりも時間がかかる。

持久戦だ。何度パンパンと身体から銃声のような音が聞こえても辛抱をしなければいけない。

その間に他の料理を済ます。今日はめんどうなのでメイン以外は雑だ。

時間が余るので、サンマの焼ける音を聞きながら瞑想をする。腹が鳴る。

 

はるか昔にサンマのために100均で買った長い皿に、その身体をゆっくりを置く。

チューブから大根おろしをひねり出す。なんとも味気ない光景だが、仕方ない。

大きな大根からこれだけの大根おろししか取れないのかとがっかりするよりも幾分マシだ。

 

いただきものの、三角形で、先が細く、使いやすい箸でサンマの身を割る。

ジュワッと魚の油が出て、ホクホクの身が現れる。感謝。

おろしに醤油をかけ、一緒に食べる。美味い。最高。

 

うちの父は ”ねこまたぎ” だ。顔と背骨と尻尾以外、皿に何も残らない。

そんな肝まで食べてしまうねこまたぎが羨ましかった。

サンマの肝をまだ美味しいと思えたことがなかった。

 

何かの幼虫のような見た目はやっぱり避けた。が、食べてみることは決めた。

父の半分も生きてないとはいえ、そろそろいけるかと黒い部分を口にした。

うん、苦い。

サンマの味のような、何か別の味のような、自分の食べ物の味の範疇からは外れてるかな。

でも昔よりは苦く感じない。でも美味しくはない、と思う。

ただただ加齢によって舌が鈍麻してしまっただけだろうが、これも少しの進歩かもしれない。

ビールが飲めるようになったように、肝もいつか美味く感じるようになるだろう。

 

黒く、苦く、気持ち悪い形のものもいつか克服できるだろう。

理想像や先を歩いている人がいれば、希望がある。

自分で見つける必要があれど、方法もきっとある。

あと何度、秋が来るのかは分からないが、秋が来る度に試してやろう。

感想文:ラヂオの時間

 

 この週末、何本かAmazonPrimeとNetflixで映画を見た。夜が暇だったのもあるし、アクティビティをする気持ちにならなかったこともあって。その内の一本が、三谷幸喜の名作と名高い「ラヂオの時間」だった。以下Wikipediaのあらすじを荒く要約したもの。

 とあるラジオ局で、普通の主婦の鈴木みやこが脚本を手がけた作品がラジオドラマで使われた。ドラマは生放送で、熱海を舞台にした平凡な主婦と漁師の恋の物語。リハは成功したが、主演女優の千本のっこのワガママから放送直前で次々と脚本に変更が加えられる。舞台はアメリカ、女弁護士とパイロットになってしまう。さらにはラストまで変更されることになり、鈴木みやこはスタジオに立てこもり「これ以上ストーリーを変えるなら放送させない」と言い出す。しかし彼女の説得も虚しく番組は続行。ディレクターの工藤はせめてラストだけは彼女の思い通りにさせたいとの思いで動き、エンディングを迎える。無事に放送が終了し、大団円。

 

 

 多分観たのは十数年振り、以前観たときは自分がまだ小学生の時くらいだろうか。あの頃は愉快なドタバタコメディとして観ていた。齢30を超えた今見ると、辛い。思ったよりもずっと辛い。観終わって後悔するほどに辛い。社会人にあるていど慣れ、自分の周りよりも広い社会の辛さを知ったからだろう。唯一の救いは大きな後悔のあとに「いや、やっぱり “今” 観てよかったかもしれない」とそれを克服できたこと。

 その原因は正反対の立場の二人の登場人物に自分を重ねてしまうから。二人は牛島(西村雅彦)と鈴木(鈴木京香)。ラジオ番組を作る必要がある立場と自分のものを作る立場。彼ら二人と僕の違いはラジオ番組を作るか、サイトを作るかのガワの違いでしかない。サラリーマンの苦悩がたった2時間半のラジオ番組に詰まっている。

 物語の最終盤、唐沢寿明扮するディレクター工藤がどうにかして鈴木の書いたとおりの着地にさせようと、いろいろ事故りながらもなんとか落ち着かせることができ「最後まで諦めずにやればハッピーエンドになれる」ような希望を描いている。しかし、現実と照らし合わせるとはそう甘くないことをぼくらは知っている。むしろこの “甘さ” がこの物語が映画であることを雄弁に語っている。千本のっこのようなプロジェクトを滅茶苦茶にするような、思いつきで街を一つ消し飛ばすような破壊神はそこら中に転がっているが、現実には工藤のような誰かの想いを守る有能な英雄はいないのだ。ほぼ全員が牛島。四方八方からの風を受け流すススキのようなもの。だってその方が楽なんだもん。

 

「満足のいくものなんてそんなに作れるもんじゃない。妥協して、妥協を重ねて作ってるんです。それでも、いつかはみんなが満足するものを作れると信じている」

 牛島がどんな気持ちで言っているのか分からないが、このセリフの場面を思い返すと混乱した場を収めようとして言ってるから、本心ではないだろう。この誰もが持ち、誰もが騙されている信条に嫌気が差している。これは嘘じゃない。嘘じゃないけど目指すべき地点じゃない。みんなが工藤になるためには、また別の大きな信条が自分の胸の内になければならない。