マレーグマの頭のなか

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感想文:ラヂオの時間

 

 この週末、何本かAmazonPrimeとNetflixで映画を見た。夜が暇だったのもあるし、アクティビティをする気持ちにならなかったこともあって。その内の一本が、三谷幸喜の名作と名高い「ラヂオの時間」だった。以下Wikipediaのあらすじを荒く要約したもの。

 とあるラジオ局で、普通の主婦の鈴木みやこが脚本を手がけた作品がラジオドラマで使われた。ドラマは生放送で、熱海を舞台にした平凡な主婦と漁師の恋の物語。リハは成功したが、主演女優の千本のっこのワガママから放送直前で次々と脚本に変更が加えられる。舞台はアメリカ、女弁護士とパイロットになってしまう。さらにはラストまで変更されることになり、鈴木みやこはスタジオに立てこもり「これ以上ストーリーを変えるなら放送させない」と言い出す。しかし彼女の説得も虚しく番組は続行。ディレクターの工藤はせめてラストだけは彼女の思い通りにさせたいとの思いで動き、エンディングを迎える。無事に放送が終了し、大団円。

 

 

 多分観たのは十数年振り、以前観たときは自分がまだ小学生の時くらいだろうか。あの頃は愉快なドタバタコメディとして観ていた。齢30を超えた今見ると、辛い。思ったよりもずっと辛い。観終わって後悔するほどに辛い。社会人にあるていど慣れ、自分の周りよりも広い社会の辛さを知ったからだろう。唯一の救いは大きな後悔のあとに「いや、やっぱり “今” 観てよかったかもしれない」とそれを克服できたこと。

 その原因は正反対の立場の二人の登場人物に自分を重ねてしまうから。二人は牛島(西村雅彦)と鈴木(鈴木京香)。ラジオ番組を作る必要がある立場と自分のものを作る立場。彼ら二人と僕の違いはラジオ番組を作るか、サイトを作るかのガワの違いでしかない。サラリーマンの苦悩がたった2時間半のラジオ番組に詰まっている。

 物語の最終盤、唐沢寿明扮するディレクター工藤がどうにかして鈴木の書いたとおりの着地にさせようと、いろいろ事故りながらもなんとか落ち着かせることができ「最後まで諦めずにやればハッピーエンドになれる」ような希望を描いている。しかし、現実と照らし合わせるとはそう甘くないことをぼくらは知っている。むしろこの “甘さ” がこの物語が映画であることを雄弁に語っている。千本のっこのようなプロジェクトを滅茶苦茶にするような、思いつきで街を一つ消し飛ばすような破壊神はそこら中に転がっているが、現実には工藤のような誰かの想いを守る有能な英雄はいないのだ。ほぼ全員が牛島。四方八方からの風を受け流すススキのようなもの。だってその方が楽なんだもん。

 

「満足のいくものなんてそんなに作れるもんじゃない。妥協して、妥協を重ねて作ってるんです。それでも、いつかはみんなが満足するものを作れると信じている」

 牛島がどんな気持ちで言っているのか分からないが、このセリフの場面を思い返すと混乱した場を収めようとして言ってるから、本心ではないだろう。この誰もが持ち、誰もが騙されている信条に嫌気が差している。これは嘘じゃない。嘘じゃないけど目指すべき地点じゃない。みんなが工藤になるためには、また別の大きな信条が自分の胸の内になければならない。