マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

サイトの役目

 これから話そうと思うのはきっと目新しくもないユーザー・エクスペリエンスの話。珍しくもない ”クソWebサイトの話” ひいては ”ユーザーがどういう気持ちで情報を得るか” です。こういう仕事に近い話をメモ書きレベルでも書くのが久々だなぁ。

 

 とある有名スポーツブランドのサイト。とても凝った動きがついていて、canvas内に描画されたコンテンツがスクロールに応じて左右にスライドする、それはまぁ見た感じ設計よりデザインよりコーディングに工数がかかってそうなサイトだった。

 しかし一見超かっこいいで済ませられそうな感じなんだけど、僕はそのサイトがクソだなとしか感じられなかった。というのも、Ratinaディスプレイだと死ぬほど重すぎて使い物にならなかったから。スクロールに対してのインタラクションが遅すぎて、見たいものも見れない。そもそも見たいものが何なのかも感じさせないくらいに重い。このサイトが閲覧者に対してどれだけの価値を提供できているのか疑問にしか思えなかった。口は悪いが、ブランド担当者と製作者のエゴの塊で作られたサイトだろう。サイトを見ていてこちらの思惑通りにいかず、ここまでストレスをサイトに対して感じのはなかなかない。

 それとは別のサイトで今時珍しいSPA的遷移もなく、プレーンなテキストと画像と少しのインタラクションのサイトがあった。情報量やインタラクションのタイミングやイージングなど少し気になるところはあれど、全くストレスなく閲覧することができた。

 

 Webサイトに関わらずアプリもそうだけど、既に、与えたい情報に対していかに目新しいものを提供するのか、ではなくいかにして相手にストレス無く情報を提供するのかにシフトしている。情報の経路がいくつかある現状、じゃあどこでもいいじゃんとなっていくのであれば最も得たい情報に対してストレスの少ない経路で十分だと。それが正しいカタログが付帯していなくても。最近廃れてはきてるが、分散型メディアの考え方もこれに近い。いちいちSNSのアプリからURLをタップしてSafariを開いて見たくもない動きやアニメーションにギガを消費して情報を得るよりもそりゃユーザーが楽だもんなぁと。結局はストレスない生活、ストレスをコントロールすることを製作者側はもっと考えなくてはいけない。情報の提示方法だったり、タイミングだったり、関係の切り方もそうかもしれない。

 

 なんてことを会社の人とSlack上で話したのでなんとなくこっちにも備忘録的に書いておこうと考えたのであります。

読書感想文:知らない人に出会う

 「知らない人に出会う」

自分が何か行動を起こすときは目的もなくただなんとなくが8割を占めるのだが、この本に会ったのもただなんとなく本屋に行ったときになんとなく目についたときだった。そして、可愛らしい犬のおしりと印象的な黄緑のタイトルと帯を見て、タイトルだけを一瞥し「そうだよな、知らない人に出会うってのは確かに大事だよな」と心で頷いて買った。

 

本書は知らない人に出会い、話しかけるのはハッピーでとてもファンなことですよ。だからみんなも一歩踏み出してみませんか?的な本だった。なんというかこういう本は例示が多くてダレる。読んでて目が滑るのは僕の集中力が足りないのか、著者の能力が足りないのか、はたまた翻訳家の技量のせいなのかは分からないが。8:1:1で僕が悪いのだろう。

 

「知らない人にこんにちはと言ってみよう!」と言われたって、こんにちはと言ってもいいがその先のことを考えてないと我々は不安なんだということをもっと知ってほしい。一回知識として知ってしまったら、知らなかったときのことを思い出せないのだから仕方ない。「素敵なワンちゃんですね!」と声を掛けたところで冷凍都市TOKYOでは犬に電柱かのごとくおしっこを引っ掛けられるか、飼い主に白い目で見られて後日不審者リストに載ってしまうだけだろう。むしろ、その後の対処の方が喫緊我々が知りたいことなのだ。知らない人に話したいのは誰だってそうなんだ。無視された後のメンタルの戻し方とか、頬を打たれたあとの気合の入れ方とかそういうのを米国人の豊かなユーモアセンスで切り替えしているような本だと思って買った僕がいけなかったんだ。ちなみに「所得格差が小さいほど他人を助けたりする割合が高い」や「なんらかの状況における少数派はお互いに気づきやすい」などわりかし面白い言説についても取り扱っているのでそこらへんは非常にGOODな情報として受け取っているので全部が全部期待はずれだったわけではない。

 

知らない本に出会うのは平気な顔して手に取るのに、知らない人と「こんにちは」と声を掛けることはこんなにも難しい。セレンディピティっていっとき流行った単語のように偶然の良い出会いも、知らない人が知ってる人になってしまったときに運命や必然になってしまうのも自分がその行為自体を拒否している原因かもしれない。偶然は偶然のままに、なにもなかったことにしておきたい。必然というのは予感が先にきてこそのトキメキだ。

 

まぁなんとなくで買ったものだけに期待を上回ることはなかった。ただ、間に挟まっていた武田砂鉄のショートコラムは非常に共感できたしこれだけでこの本を買った甲斐があったなぁと思ったことは確かだ。これはきっと中古で買ったらついてこないだろうから、新品で買って得したなぁ。

 

あ、あとこの本の装丁をしたところが実は知り合いが勤めているデザイン会社だったりして世間は狭いなぁという気持ちと何となくそういうのが目についちゃうのかなという必然性にクラクラしました。

NPCの住む街

 新宿には電車で数駅、自転車でも十数分くらいで行ける圏内に住んでいる。家で何か足りないものがあれば、新宿まで行って何かを買って埋める、そんな生活をしている。新宿で用を済ませて帰ってくるまでおよそ一時間と少し。その間で、いつも、ものすごく孤独を感じる。その買い物の間で何百人、何千人とすれ違うのにメッセージの設定されていないNPCのようだ。相手から見ると、僕もその一人だと思われているのかもしれない。

 何度も何度も反芻している。東京は住むのには楽な街だけど、生きるのにはとても苦しい街だなぁと。東京生活10年目にして更にしみじみと思う。水中に酸素が少なく、パクパクと水面で口を開いて閉じてを繰り返している金魚のような感覚に陥る。東京に出てきた田舎者のぼくらには、真の安息は実は借りている部屋ではなく、ここではない別の何処であり、それを皆いつまでもいつまでも探し続けているのかもしれない。

スルメ

fujiitakashi.hatenablog.com

記憶や思い出はスルメみたいなもんで、噛めば噛むほど味が染みでて美味しいんだけど、原型が無くなっていく。どんなカタチだっけと口から出しても、その形は変形している。その変形した形が、それが事実だったか虚構だったかなんてのは分からなくなっている。咀嚼しても反芻しても満足感は得られる。ただ、忘れさられる部分は沢山ある。でも、それでもいいんじゃないかとも、思ったりする。

 

 

 なんか3年前の自分がそんなことを書いていた。いいなぁ。

 噛み続けると、エッセンスだけになってしまう。咀嚼していない記憶の方が、ふと思い出したときにしっかりと、色鮮やかに蘇ったりする。普段の生活でよくリフレインする記憶の枝葉末節はよっぽどのことが無い限りは忘れてしまっている。あの旅行で乗った電車のボックスシートの位置とか、そのときにどんなことを話したとか、あの子がどんな服を着ていたとか、靴ずれのために絆創膏を貼っていたかどうかとか。しかし、そこに重要な部分が噴出していて、僕らはそれを忘れてしまうためにしばしば怒られてしまうのだ。それもまた大事な行為なのだけれど。

 

 3年前の自分の方が物事の本質を捉える力があったのではないかと、今の自分と照らし合わせてみて思う。今の自分は3年前の、そしてそれ以前の経験だけで人と話しているような感覚になる。それは想像力とは言わず、自分が遺したレガシーである。この書は10秒で筆を滑らしたが、これまで生きてきた50年と10秒なのだという話はあるが、僕はその50年で止まっている。時間を止めずに先に進むことを今はひたすらに考え、動いている。

初めてのこと 20170804

 お昼ご飯に何を食べるか悩みながら、左手に財布を、右手にイヤホンをぶら下げたiPhoneSEを握りしめてオフィスを出た。エレベーターホールで同僚に声をかける。「なんかオススメのランチありますかね…?コメ系がいいんですけど」「前にも言ったけどシンガポール料理行きました?」「なるほど」ということで、オフィスから徒歩5分、全部で6車線ある大きめの横断歩道を渡った先のシンガポール料理屋さんを目指した。

 シンガポールの国旗がある。そう耳にしたので探したのだが、無い。あるのは同じ月と星のマークを携えたマレーシア料理屋だけ…。なるほど、ここだったか。シンガポールじゃなくてマレーシアだった。確かにまぁ似てないこともない。阪神タイガースが大阪が兵庫かなんていうのは分からない人は分からないだろう。エレベータで上がって、2階。エレベータの中は更に上の階の美容室の得体の知れないなんとなくドレッシーな女性の匂いがして、不安になった。ドアが開いたら思ったよりも綺麗で落ち着いた空間だった。民族っぽさのある置物はあまりなく、かといってお客さんは外国の、特にアジア系の人が多く見られたのでそのバランスがここはマレーシア料理屋だと示していた。

 カウンターは無かったので、一人なのに四人がけのテーブルにつかされ、僕は海南チキンライスを頼んだ。焼肉屋のタレを入れるような更に赤、黄、黒のタレが入れられていた。自由につけて食べろということだろうが、それぞれ何味か最後までよく分からなかった。パクパクモグモグ。美味しい。サラダと飲み物とデザートは食べ放題のようだ。席数は24くらいあるのに、店員さんが少なくて慌ただしさがずっと続いていた。

 

 こういう初めて行った場所を思い出して書くこと、何となくだけど今日から始めようと思った。