マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

縄文展にいく

 

 縄文展に行ってきた。展示資料のペラペラの紙も、図録も、もちろん写真も無いので24時間前のフレッシュな記憶のうちに、感じたことを残しておく。

 

 まず、行けてよかった。巡回展ではなく ”東京国立博物館でしかやらない” と注釈に書いてあったのを予め見逃してなかったので、これを逃すとド田舎各地の郷土資料館的なところを回らないと見ることができない。ド田舎は言い過ぎたけど、長野、山梨、函館、青森あたりを縄文土器のために回るのは相当な情熱がある奇人変人にしかできず、僕は奇人でも変人でもない。

 

 一通り回って思った。僕は土偶にはそこまで興味がない。なんでだろう。なんというか、完成されている感が土偶はすごい。誰もが知ってる遮光器土偶も丁寧に展示してあって、確かにすごく興奮したし、ああ、これが歴史の授業で習う例のアレ…!すごい!って気持ちにはなった。とくに土偶界のビーナスと呼ばれていたヤツは素晴らしい造形美だった。あのセンスは現代に匹敵する。って思ってたら佐藤卓も同じこと言ってた。しかし土偶ってのは何に使ってたかは不明だけど、使用用途なんてすごい限られているだろう。現代のフィギュア的に飾って使っていたのか、儀式に使っていたのかは分からないが実用的なものではないことは明らかだ。

 

 やはり土器が良い。逆に土器って飾るものじゃなくて、日用品の一種だ。中に何かを入れて保存するためにある。あくまでも想像でしか無いけど、どんぐりとか釣った魚とかを入れて保存してたりしてたんだと思う。たまに乳が腐敗してチーズとかができたりしたんだろう。なのに、土器をああまで使いづらくゴテゴテの装飾をしてて、意味がわからない。使いやすさを犠牲にしてまであそこまで情熱的でエネルギッシュな紋様を刻みつけることに理解の範疇を超えた何かがあった。火焔土器のカッコよさは本当に相対すると感じざるを得ない。ところどころに動物や人間の顔らしい造形が見える。意図は謎。でも理解不能だけど絶対当時の人間は出来上がった土器を見て「これめっちゃカッコいいじゃん、今回マジで良いの出来たなー。これウチにほしいわー」とか言ってたことは想像がつく。まともに取っ手も無いし、水を汲みに行くのとかめんどくさかったことも想像がつく。こういうアンビバレンツだけどワクワクの方が勝ってしまった古代人の気持ちになれることがとても気持ちよかった。

 

 とにかく縄文土器からエネルギーをもらった。絵が描けないなら盛り盛りにしちゃって半分彫塑的な造形しちゃえばいいじゃん!というアドバイスをもらった気がする。最終日だったので人が結構多くて長時間滞在できなかったり、作品一つ一つに掛ける時間もなかったりともっと早く行くべきだと後悔の念が強い。次にはいつ相まみえるのか分からないけれど、縄文時代はミステリアスで良い。

名付け

 大人になると、同じ名前の知人友人が増えていく。”タク”とか”アキラ”とかはもう常連だ。後者なんて男女関係なく存在する。可能なら彼ら全員に違う呼び方を付けたいと思うのだが、アダ名を付けることがあまり上手くない。名前を付けることはすごく大事だと思ったことが最近ちょうどあった。

 NHKで「みんなで筋肉体操」という新番組が始まった。我々人間は怠惰な生き物であるが故、筋トレが続かない。NHKは昔からラジオ体操を映像として流していたが、これもその一環かつ短時間番組として見ながら一緒にできるところに優れたものを感じた。このコンテンツの素晴らしさは置いといて、話は名付けについてだ。

 おそらく腕立て伏せや腹筋に学名のような詳細な名前がついていたことを、この番組で知った人も少なからずいるんじゃないだろうか。フルレンジ・プッシュアップという名を知れば、他にもやり方があることが分かるし、それぞれ効能が違うこともなんとなく気づける。

 たくさんいる「タカハシタクヤ」に呼び名をつけることで、対象をしっかり捉えることができる。自分が今なんとなくやっている行動に命名することで、再現性を持たせることができる。歌も同じだ。名前を付けることで、メロディと詩を合わせて奏でることが可能になる。

年をとった

 

 30歳になったことについて、何も書いていなかった。毎年何か書いていたかなぁと遡ってみたら早速去年で既に書いてなかった。だからやめとくかとも思ったけど、何かしら残しておく。後で読み返せることが最も大事。

 僕は年齢を重ねることに対して、割と毎年嬉しく思っている。結果を残さずとも喜ばれることなんてこの歳になると多くなく、誕生日はその一つだからだ。その侘しい喜びは大切にしていきたい。

 

 身体的には以前も書いたが、虫さされの痕が皮膚に色素沈着しやすくなったなというのが最も顕著に老いを感じるところだ。あとは少し髪が薄くなってきた気がする。多分昔から大きくは変わってないけど、気にすることで特にそう感じやすくなっている。周りの友人も徐々にそうなっているのが面白い。老いは面白い。昔と同じ自分がいないこと、記憶と身体が一致しないこと。一致するのは夢の中でだけ。

 2008年の自分と今の自分をご対面させたら、どう思うだろうか。これも同じようなことを書いた記憶もあるが、とても見せられないようなオトナにはなってないことが今は救いだ。給料こそ多くはないが、友人の多い人生を送れていると思う。同じ会社や過去の学校関係にしか友人がいないなんてこともなく、いたるところに友人がいる。とてもありがたいことだ。昔、困っていたことを、今の僕に相談してくれたら、きっといい回答を渡せると思う。

 

 今、自分の目標を考えている。目標というのは、目的に到達するまでのマイルストーンだから、そもそも目的を作らなければいけない。僕にとっての目的、生きる目的、働く目的はなんだろうと考える。考えたこともなかった。考えなければならないことから、目を背けていた気がする。先日の記事と同じだ。僕が書くことは既に大体書かれている。

 こういう目的は過去の経験から導き出すことが一般的なんだろうか。それでいえば、一つあることに気付く。それは「やりたいことをやれなかった」ことが、僕にとっては最大の後悔かもしれない。家族の中でも制約があり、いろいろやれなかった。やらせてもらえなかった。当時は情報を得る術を知らず、説得する術も知らなかった。そういう子どもだったからこそ、誰かがやりたいことを阻害する世の中を変える必要があると思う。多分、今の生きる目的を設定するのならば、これならばスッと胸に入ってくる。

 

 この目的を元に、目標を設定する。30歳になったから、ではなく、目的を達成するために、目標を立てて30歳の自分をアップデートさせていこう。

20180827

 友人(以下、Nくん)が彼女にフラれたそうだ。僕と同い年なので三十路。そろそろ結婚できる女性を探さないとと重い腰を上げていた。そして、彼女から「もう少し高め合う関係になれる人がいいの」と言われてしまったらしい。

 

 彼女とはマッチングアプリで出会い、4ヶ月ほどで別れることになったらしい。Nくんは様々なマッチングアプリを試し、どのアプリにはどういう層がいて、どのような目的で使っているか、どのように使っているかを詳細にExcelで管理していた。その調査資料にはマッチングアプリだけでなく街コンのデータなども入っている。どんな女性に出会ったか、どのような話をしたか、はたまた同じ男性枠にはどんな人がいたか、自分との差別化ポイントはどこにあるかなど、まるでマーケティングリサーチ、自社サービスのPDCAを回すかのように自分の婚活をしていた。それをベースに出来た彼女が前述の彼女だったそうだ。すごいことをしているなと尊敬しつつ、自分には真似できないなと思っていた。別れて即やったことはマッチングアプリの再登録だったそうだ。2年間も恋愛に手を出さなかった自分とは大きな違いだ。

 

 婚活をすることだけでなく、仕事のように私生活を回すことをやったことがなかった。例えば大学受験も、ちゃんとスケジュールを引いて、いつまでに数学の微分積分がスラスラと解けるようになっていないと困るという目標設定はすべきだと思う。今振り返ると。ただ、やってこなかった。誰かが引いた時間割に従い、塾の時間割に合わせて勉強していれば、人並みにはできたから。就活もしたくないという理由だけで、まともな就活戦争はしてこなかった。スケジューリングやKPTを人生においてもやるべきだとは思う。

 が、なあなあで生きてきた自分にとっては時の流れや社会の流れに身を任せることで目的地にほど近いところまで行き着くことができた。恋愛もその通りでなあなあにしていた結果、情で繋がっていた関係が、切れた。でも、また良い人と出会うことができ、結婚までいくことになった。

 

 結婚という「ペラい紙を一枚、役所に届けるだけ」だと思っていた、だけど思っているよりも面倒な儀式に対して、何をしなくちゃいけないのかを整理しながら、スケジュールを引きながら、全員が納得できる答えを探りながら少しずつだけど進めている。みんなが生きる上でやってきたことを、齢30になった平成最後にやっとこさ重い腰を上げて、やっている。

 ちなみにNくんは東大卒の官僚なので、スーパーウルトラ優良物件なのにつまらない理由で振ったもんだなぁと。いやそれでもそれ以上の価値がその「高め合う関係」にあるのだろうと、今後出会うこともないだろうフッた彼女とNくんに良い人が見つかるように祈っている。

20180803

 

毎年この時期になると悩んでいるような気がして、一体どうだろうと昔のブログを読み返してみたけど思ったより悩んでなかった。この印象が強いのは多分4年前に転職活動をする前の、会社を辞める決意をしたあたりの苦しさ故だと思う。あの頃のせいで、胃の弱さを未だに引きずっている。

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このブログはストーリーテリングなんてことをやっていない。読めば分かるが。仕事で似たことを推進しているからだろう。何度も書いているが、このブログは未来の自分への手紙であり、記憶を呼び起こすためのトリガーである。今の時代の人だときっとInstagramとかで写真に残すのが普通なんだろうが、僕は視覚情報ではそのとき気持ちを思い起こすことができない。誇張された感情が浮き上がってくる。これらの文章だって多少は誇張してしまっているけれどね。

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禅についての漫画を読んだ。禅において、文字や言葉というのはそれそのものでしかなく、それ以上の意味を持たない。師が言っていたことを他人に言うことはただのオウム返しでしかなく、実際に自分の五感を使って体得しなければ全く無意味である。なんでもそうだな。一番驚いた金言は「生から死へ至る距離が時間」という言葉だった。