マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

同時代

 先日、先輩の演出家を招いて社内で勉強会を開いた。テーマは「ナラティブとは何か、そしてそれに掛かる演劇史について」をメインに、演出家の方が以前ルーマニアで公演したものはどういった順序で構成されていったかを話してもらった。とはいえ、この話題は普段から僕と先輩がファミレスでぺちゃくちゃとドリンクバーから汲んできた飲み物を片手にくっちゃべってる内容なので僕は相槌を打ちつつ聞いていただけだったが。

 ことにこの公演についてはここに書くことはしない。今回はそれよりも大事と感じたことを書く。

 結局のところ、僕らがビジネスの文脈で考えることと誰かがアートの文脈で考えられていることというのはリンクし、同じ言葉が使われていく。そういった世間の様相が見える。勉強会終了後、エントランスで立ち話していて出た結論としては、この「同じ言葉が使われていく」ということは、単純な同時代性から出た産物なのだろうということだった。どちらかから発生した言葉を「おっ、いい感じのニュアンスを持った言葉があるじゃん。拝借していきますね」と他方が借りて使う。1995年頃の新興宗教の活動と爆発的人気のアニメの世紀末思想から生まれる暗さだったり、ニュートンライプニッツが遠い場所で微積分を思いついたり。分野や場所が違っても、これまでの歴史のコンテキストと同時代性により、同じような感覚を持たされた我々は同じような危機感を持っている。同じ時代には同じような教養が浸透し、同じような事件が各地で起き、同じような武器を持ち、同じような不安を抱え、同じような希望を持った我々が、同じような成果が産む。

 成功している人は、その同時代性を汲み取り、具現化した人なのか。Empathy を感じさせ、Empathy をする人が今の時代の波に乗るのか。

最近面白いと思ったもの 20180416

最近面白いと思ったもの

 

jp.automaton.am

 3DSではカセット一つ、プレイヤー複数人プレイができるゲームはいくつもあれど、PS4やSteamでこういう無理矢理感あふれるアプローチは初めて見たかもしれない。過去にはあったが、それがゲームの面白さと見合ってなかったから表出してこなかったのだろうか。

 そして中身も、ゲーム画面のレイアウトも進行や場面に応じて変形していくというのも面白い。漫画のようなコマ割りを連想させる奇抜なレイアウトは、モード選択時のフレーバー的要素でしか無かったが、プレイにどう影響するだろうか。視点がばらついて面倒に感じるだろうか。そういえば、先日なんだったか、Youtubeかなにかを見ていて感じたことがある。縦型動画をPCで見た。正直言って見づらさしか感じなかった。縦型動画が流行ったというのは視点が間違っていて、単純にメディアやインターフェイスに合ったコンテンツを作ろうというだけの話でしかない。単純に、漫画だってテレビだってスマホだって丸型のディスプレイだって、そのディスプレイいっぱいを使ってコンテンツを見ることが最も不愉快な気持ちなく見れる、ただそれだけだ。

 またゲームに戻るが、きっとどちらのキャラクターをプレイしたか、両方プレイしたかによってプレイヤーの自身の語りも変わってきたりするのだろうか。輪読のように、違う文脈を持った人が同じ情報や出来事を見ることで理解や解釈が変わっていき、それを重ね合わせることに意味があるゲームのように感じる。PS4が二台ということは、Discordなどで通話しながらプレイしたりするだろうが、実は全く別の画面を見ていたということはあるかもしれない。一方はクルマを運転していて、一方は宇宙船を運転しているなんてこともあるかもしれない。マテリアルがすり替わるだけで体験は全く変わっていく。セリフが同じでも場所によって感じ方は変わる。そういう可能性をこのゲームに見た。

ーーーーーー

 

 過去を消すということをしていると、自分が過去に許可や拒否した可能性に気付かなくなる。僕にとって気分によって過去を消すことは非常に重い。やりたいことは分かる。人間は年をとるごとに考えや身体的な機能がアップデートされるから、基本的に過去は恥ずかしく感じる。恥ずかしくないことを書けというのは、何も書くなと同じことで、やはり過去の自分を受け入れていく必要がある。今書いてることですら10年後にはおかしいと思うときがくるかもしれないが。

 イラク派遣された自衛隊の日報が面白いのは、ゲームに置いてあるメモ書きを集めるのと似ているからだと言われている。その消されかけた断片を集めると、当時、何をしたのかが見えてくる気がする。自分は自分のことをよくわかっているとタカをくくらずに、断片を集めることのできるようにしておくことが、今できる先に繋がることだと思う。

相似形を見つけよ

 これは心配なのか、お節介なのか、それとも不愉快になっているのか。自分でも分かっていないのだが、とかくまぁ気になっていることがある。端的に申し上げると、後輩の話がものすごくつまらない、のだ。その形はどんなでも。対面で喋ってても、SNSに投稿するにしても、だ。「うるせーうるせー、お前の話も大して面白くもねぇじゃねぇか。大口叩いてんじゃねーぞ!」とツッコミが入ると、僕も「へぇ、すいやせんでした」と両手と額を床につけ、ただただ平伏するしかないわけだが、それにしてもつまらない事実は変わらないのである。

 

 はて、何が一体つまらないのか。いや、そう感じさせるのか。今読んでる人たちはどれだけつまらないんだと期待値が上がっているかもしれない。つまらなさの期待値は上がれば上がるほどつまらないのか、面白いのか。果たしてどっちなのか気になるところだが、そんなことはどうでもいい。ただ、つまらないのだ。具体的に言えば、

 「こういうニュースがありました!」

 「これ勉強になります!」

 「これ良かったです!」

こんな感じ。えっ、思ったよりつまらなくない?いや、つまらないんだって。期待値が謎に上がりきってしまった故にこういう事故が起こる。それは置いといても、きっと皆に期待する返答があるんだろう。このコミュニケーションのやり方ってば、TwitterでRTしかしない人と同じなんだ。あんたはRSSか何かなのか?それだったら人間RSSじゃなく、静かなシステムの方を使いますよ。

 

 僕は基本的にそういう人はフォローしないし、しがらみの中でフォローしててもミュートしてる。明確に自分の中でコミュニケーションの足切り対象になっている。一方、自分の意見や経験を添えているなら問題ない。何か添えるにしても、全く違う分野から相似関係の現象を引っ張り出してくれる人は稀だけど特にありがたい。ああ、何か見えてきた気がする。おそらく、自分との共通部分の確認作業としてのコミュニケーションはつまらなく感じてしまうのだ。昭和のコミュニケーションである「昨日のテレビ見たー?」から始まるジャブは鬱陶しいのだ。「山、川」の合言葉を示されても我々は味方であるというサインでしかない。そこに安心感と馴れ合いが産まれるだけだ。ご存知の記号と記号を掛け合わせても「あっ、これ知ってる!」と脊髄から信号が走り、一見面白いように感じるだけだ。スムーズに電気信号が走ることで面白いや好きを勘違いしている。そういう風に人間はできている。しかしそうじゃない。自分はあなたが知らないけど面白い(と自分が思っている)ものを持ってますよ、よってらっしゃいみてらっしゃいって流浪の商人がやってきたようなコミュニケーションが僕にとっての ”真” だ。

 

 というかですね、「百聞は一見に如かず」なんですが「百見は一考に如かず」だし、更に「百考は一感に如かず」なわけです。今適当に作りましたけど、言葉にするというのはそういうことです。今見知ったことなんて、1回体感したことの1万分の1倍程度しかない。少し見ただけのものを「面白い」なんて一言で済ませたくないです。それなら自分の知ってる範囲のことと結びつけて話すべきだ。それが真摯な情報への態度だと、僕は思う。ここまでダラダラと愚痴を書いてしまったものの、これは完全に反面教師にするつもりで書いてます、はい。僕のような中途半端に広く、限りなく浅い知識だけの人間は、様々な分野において相似形を見つける能がしかないんです。少しでも多くの物事を繋げて意味のある事象を見出だせればと、僕は思うわけであります。

20180410

暇をもてあますとnoteだとか、もちろんはてなブログだとかを読んで他の人の読み物をふむふむと拝見する。いつもいつも思うのは皆んな強いこだわりがあるんだなぁということ。記事にすることって、① ニュースを引用して一言物申す系、② 自分のこだわりの解説、③ 映画や本や何かのレビューのおおよそ三つに分類できる。自分は①は避けて、②と③、あとは日記を書いている。他の人の吐露を見るにこだわりというのはいたる所にあって、その事実を知ってしまうとそれを知らず知らずのうちに傷つけてしまわないか不安になる。

ありがたさ

 お寺や神社には、ありがたいなぁという気持ちを持ってお参りする。昼時に会社の周りを何をするでもなくふらふらしていたら、まだ新しく木目がしっかり見える木を使った寺社に出会った。その寺社が由緒正しい系統であったとしても、ふらっと入ってお賽銭を投げ込む気持ちにはならなかった。

 通り過ぎたあと、この気持ちを整理すると、やはり新しくできあがったばかりであろう外観がその大きな要因となっていることは明らかだった。そういえば、こんな出来事を思い出す。およそ30年前に造成された実家の団地では、僕が高校生に上がる頃に神社ができた。当時スレていた僕は「御神体すら無いのに何が神社じゃい」と見向きもしなかった。その団地の住民だけが投げ入れた小銭がうっすら入っている賽銭箱を、何の効力も持たない募金箱か何かとして自分の価値観の中では置いていた。

 昭和最後の年、僕が生まれた時点ではほぼ全ての神社は自分よりも古いものだ。ほぼ全ての鳥居はくすんだ朱色をして、縦にヒビが入っているのが当たり前はずだった。きっと伊勢神宮が近所にあったらまた違った価値観が作られたのだろうが、寺社仏閣はたいてい年月の経った焦げ茶色の木材で作られてたものが、それだった。僕が求める「ありがたさ」はおそらく長い年月で積み重ねられた神秘性だ。

 ここからは勝手な想像でしかないけど、平安時代鎌倉時代など飢饉とかでバンバン寺社仏閣を立ててたときはきっと新しい神社だろうがなんでもすがるために人々は参拝していたはずだ。昔の寺社は割りと派手だったということも聞いたことがある。煌々とした朱色で塗られた鳥居に、金ピカの大仏や赤青黄色で飾られた建物がメインだったはず。となると、当時の人々の「ありがたさ」は派手さやお祭りのような賑やかさに潜む神秘性だろう。

 こうやって考えてみると、真逆に見える僕の価値観の「ありがたさ」と昔の人々の価値観の「ありがたさ」は指標は違えど一つ共通点がある。それは日常から逸脱した非日常に対して「ありがたさ」を感じるという点だ。現在では、特に今住んでいる東京では新しいものばかりで、昭和にできた建物の方が珍しかったりするし、あばら屋すら見ることは少ない。その平熱との差が「ありがたさ」に繋がるのだろう。やはり「有り難い」と書いて「ありがたい」と呼ぶように、普段に無いことを我々はそう呼ぶのだった…。そういうことにしといてください。