マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

同時代

 先日、先輩の演出家を招いて社内で勉強会を開いた。テーマは「ナラティブとは何か、そしてそれに掛かる演劇史について」をメインに、演出家の方が以前ルーマニアで公演したものはどういった順序で構成されていったかを話してもらった。とはいえ、この話題は普段から僕と先輩がファミレスでぺちゃくちゃとドリンクバーから汲んできた飲み物を片手にくっちゃべってる内容なので僕は相槌を打ちつつ聞いていただけだったが。

 ことにこの公演についてはここに書くことはしない。今回はそれよりも大事と感じたことを書く。

 結局のところ、僕らがビジネスの文脈で考えることと誰かがアートの文脈で考えられていることというのはリンクし、同じ言葉が使われていく。そういった世間の様相が見える。勉強会終了後、エントランスで立ち話していて出た結論としては、この「同じ言葉が使われていく」ということは、単純な同時代性から出た産物なのだろうということだった。どちらかから発生した言葉を「おっ、いい感じのニュアンスを持った言葉があるじゃん。拝借していきますね」と他方が借りて使う。1995年頃の新興宗教の活動と爆発的人気のアニメの世紀末思想から生まれる暗さだったり、ニュートンライプニッツが遠い場所で微積分を思いついたり。分野や場所が違っても、これまでの歴史のコンテキストと同時代性により、同じような感覚を持たされた我々は同じような危機感を持っている。同じ時代には同じような教養が浸透し、同じような事件が各地で起き、同じような武器を持ち、同じような不安を抱え、同じような希望を持った我々が、同じような成果が産む。

 成功している人は、その同時代性を汲み取り、具現化した人なのか。Empathy を感じさせ、Empathy をする人が今の時代の波に乗るのか。