マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

リビング ザ ゲームを観た

 

昨今世間を賑わせているe-Sports。その界隈の中でも、格闘ゲーム界の一部を切り取ったドキュメンタリー。20年以上業界を引っ張ってきた梅原大吾と先日発表された団体のJeSUのライセンスを唯一受け取らなかったももちに焦点を当てていた。いくつか気になったテーマに沿って感想を書く。

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 格ゲーマーの練習

 ゲームだけじゃなく、この世の全ての競技はミスをした方が負けるというのが理である。また、全ての競技は勝つ確率が高いことを繰り返し続けることが勝つ秘訣である。だから無意識下で神経の伝達を行うために反復練習をし続ける。1/60秒という単位で人間が同じことをし続けることはほぼ不可能だが、それに近付けることはできる。物語の主役はだいたいクライマックスで今までした練習が裏切ることなく成功する。ドキュメンタリー映画の怖いところは、書かれた筋書きが事実だというところだ。

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 人生を変えるゲーム

 思わず涙が出たシーンがあった。それは上でも出たウメハラに ”伝説の一戦” で負けた側のジャスティン・ウォンのヒストリーを振り返ったとき。15歳で初優勝した賞金1000ドルで新しいゲームや服を買ったりした。そして、おばあちゃんにお返しをした、と。貧しい家庭で育ってしつけも厳しかったジャスティンに毎週$2与え、そのお金を握りしめてゲーセンに行っていたらしい。そのお小遣いのおかげで今のジャスティンがあるんだと思ったときに泣いてしまった。こういうのに弱い。

 また、この映画を観たらきっとあなたはゲーマービーを好きになると思う。台湾の好青年の彼は複雑な家庭環境で育ち、深夜になっても朝方になっても片親の父親は帰ってこない。寂しくなったら24時間開いていたゲームセンターに行ってゲームをずっとしていたそうだ。19歳のときに父親が死んだとき、どうしたらいいか分からなくていつものゲームセンターのいつもの場所にずっと座っていたという。そして、今はアジアのEVOを開くために活動しているという。こういうのにも弱い。

 ゲームは一日一時間の娯楽でしかなかった僕にとって、彼らとは決して相容れない環境だろう。しかし、ゲームは彼らのような人たちを救うことができたのだ。

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 プロゲーマーって何をしたらプロゲーマーになるのか。

 一般的にはスポンサー契約をすることで、プロゲーマーと名乗る場面が多い。友人のカードゲーマーは、スポンサー契約してからプロを名乗っていた。我々はプロに何を求めているのか。僕は無類のカープファンだが、勝つことが最大の喜びだ。では、果たしてプロゲーマーも同じなのか。その疑問に対して「勝つこと」がプロゲーマーに求められていると述べるももちと、「記憶に残る試合をすること」でプロゲーマーとして認められたと述べたウメハラ。僕らは「レッツゴージャスティーン!」のEVO2003のアレ、この ”伝説の一戦” はおそらく格ゲーの面白さを語る時に必ず使われるだろう。ファンとして勝つことを最大の喜びとしながらも、大きな舞台で心に刻まれる試合を僕らはきっと心の奥底、本能として求めているのだろう。イチロー羽生結弦羽生善治などその道のプロには確かにそれがある。魅せるプレイをして、かっこいい、面白そうだなと思わせて競技人口を増やす。それに応えられる人が真のプロなのかもしれない。

 

 まぁとにかく良い映画だった。ドキュメンタリー映画は密着取材した映像を編集して並べているが、起きたという事実だけは必ず歴史とリンクしていることが最大の魅力だ。先週末の獣道は、この映画の地続きだということが良く分かるので、そちらもチェックしてほしい。

 

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読書感想文:暇と退屈の倫理学

 

 今年1月に買って、二、三日程度で250ページほど読んでからすぐインフルエンザに罹ったり、そのまま長期休暇に入って旅行に行ってしまったので結果的に読み切るまで2ヶ月ほど掛かってしまった。この本と出会ったのはいつだったか、会社のランチを終え、青山ブックセンターに立ち寄ったときに一際赤い表紙に目が行った。そして手にとって、題字を読み、これはきっといつか買わなくてはいけないだろうと思ったのを覚えている。

 

 「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」をテーマに書かれている。先日の「メディアアート鑑賞 覚書」を書き終えて数時間後に残り100ページほどを、読み切った。結論以外ほとんど読んでいるとはいえ、自分に驚いたことがある。というのも、結論に先日の記事と同じようなことが書いてあった。この本の結論まで内容が、きちんと自分の体に知識となって根づいていたのだ。退屈と向き合うためには、世界と向き合って、自分とも向き合う必要がある。この時差があったことは大きなインパクトを与えた。決してこの本は薬じゃない。処方箋に近いかも。この処方箋に従って、過ごしてみよう。

 

 人生は、暇で、退屈である。熱中できるものがない、覚悟がない、やりたいことはない。与えられた積み木で遊んでいれば、ある一定のルーティンをかまして満足はするだろう。この退屈感は慢性的で、日本に蔓延る風土病か何かだと思っていた。誰しもが退屈と興奮の矛盾からは逃げられない。これが分かっただけでも十分だった。

 消費をしない。マーケティングを生業としている会社に勤めている身からすれば、自分がやっていることと退屈から抜け出すためにやるべきことは矛盾しているかもしれない。情報を不可し、その情報を享受させ、その差/記号に金を払ってもらう。本当はそんなもの、必要ないのに。記号化されたものは際限なく湧き出す。我々は食事ではなく、情報を食べている。そんな漫画の一コマは決して嘘ではない。自分を信じられなければ、誰かが不可した情報という添加物で味を感じるしかない。この事実に気付き、日々困惑しつつ、どうしようもできない自分に苛立って焦燥感を浴びていたのかもしれない。

 

 物語の主人公は何かにいつもと違うところに気付かなければ、物語が始まらない。彼らは何にでも刺激を受け、感じている。彼らは退屈することがない。退屈しても、すぐにまた新しい何かを見つけたり、何かに囲まれたり、ひょっとすると巻き込まれたりするかもしれない。僕らもそれをすればいいだけだった。結論は思ったよりも普通だったり、当たり前のところに着地しているかもしれない。結果的に、自分が取ろうとしているスタンスが間違っていないという証左になってくれただけでこの本は価値のある物として本棚に収まる。

 

 この本を読めない人は、序章と結論だけ読んでみればいいと思う。大きくはそこに文字として書いてあることが全てだ。しかし、結論を読めば、この本を読む過程における意味が大事であって、文字として書いてあるその言葉には危うい語弊が生まれるかもしれない。だから、この本を読もう。

 

 

メディアアート鑑賞 覚書

僕はファインアートもメディアアートも好きで、年に何度かは美術館や博物館に行ったり個展やギャラリーに出向く程度には情報を摂取している。3月11日にいろんな展示が終わるにあたって、ICCに足を運んできた。メディアアートは大きく二分して、コンセプチュアルアートと体験型アートがあるように思う。

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どちらにも大きなコンセプトや目論見があるとしても、体験型アートは実際にやってみて楽しいから誰でもとっつきやすい。体を動かしたり、音を聞いたり、音と連動する光が点滅する様を見たり。一方コンセプチュアルアートの方は分かりづらい。ある一定の動画が流れたり、大きな何かがそこにおいてあったり。

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その分かりづらさというのは、作者が提示するコンセプトに対して、自分がもつ価値観を照らし合わせたときに合致するかしないかの幅が大きいからのように感じる。合致すればそれは素晴らしい作品のように思えるし、そうでなければよく分からない作品がそこにあるように感じてしまう。例えば日本では、銃乱射事件のような事件は欧米に比べると非常に少ないため、銃をモチーフにした作品に対してはセンセーショナルな映像だな!くらいにしか思えず「よくわからなかった」という感想が出てきやすそうである。

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ファインアートを楽しむためには、その当時の風俗や歴史を知っていればより楽しむことができる。つまり最近のアートを楽しむためには、現代の世の中で何が行われているか知る必要がある。世界でどういうことが問題になっているか。難民問題、核兵器、温暖化、独立問題 etc. いろんなことを知ることで自分が知らないところでどういう価値観が育まれているのか、どういうものに危機感を覚えているのかを共有する。シンパシーではなく、エンパシーをする。そうすれば、このアートで伝えたいものが分かる。

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どのような技術で作られているのか、どういうアルゴリズムで作られているのかを想像して体験をすると面白い。言語レベルの話ではなく、どこで動きを取得して、どういう変換の元にこれがアウトプットされてされているのかを想像する。それはキャプションには書いてないことがほとんどなので、あとでどこかのインタビューで書かれていることと合致したら非常に嬉しくなる。意外と自分でも作れるんじゃないかとか思ったりする。現実は作れないのが辛いところだ。

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ファインアートならまだしも、メディアアートで先にキャプションを見てしまうのは非常にもったいない。見て、聞いて、触って作者のコンセプトや目論見を想像する。その想像と答え合わせをして、何故この人がそのコンセプトを据え置いたのか、自分が何故そう思ったのか、その源泉はどこにあるかを考えるのが面白い。キャプションを見ず、まずは自分の感じたそのまま信じてみることがアートと向き合うことなんじゃないかと思う。だってそうはじめに感じたんだから、それは正解の一つなんだよと言っている。

さらに期待を、つづける

同じ情報ソースを見続ける必要がある。新作の何々がいついつに出る。あの人の展示がある。

新しいものに対して、はたまた見たことのないものに対して「面白そう」や「楽しみである」という感情を自らの内面に芽生えさせることが肝要。

実際にそこに行くか行かないかは割りとどっちでもいい。期待をすることが大事だ。

相手に対して期待を持つことは、おそらく自分を強くする。自分が信じられないと、相手も信じられないからだ。相手に期待を裏切られても、自分の強さで跳ね返すことができるからだ。

自分を信じられるようになるには、信じた自分を実現するしかない。朝に二度寝をしないと決めたらそれをする、そうしたらば、自分をもっと信じられる。もしも二度寝してしまったら、もうちょっと遅く起きて、二度寝できないようにすればいい。できる範囲を広げることでしか自分を信じられる、手の届く範囲は広がらない。

相手の手の届く範囲と自分の手の届く範囲が重なっていたら、相手に期待すればいい。そうすれば、もしもどっちかがダメでもお互いで補うことができる。仕事ってそういうもんだったりするな。

自分を見続ける。同じ自分でも少しずつ変わってる。もっともっと期待できる自分を自分の中に作っていこう。

fujiitakashi.hatenablog.com

半径1km着

 土曜日は夜に飲み会があったので、夕方まで平昌オリンピックを見ながらずーっとゴロゴロ。そして日曜日にも何も予定が無かったので、15時まで布団で夢つつつ、その後はずーっとゴロゴロ。いつもと同じ時間に眠り、いつもと同じ時間に起きて会社へ向かった。この二日間で生産したのは二酸化炭素くらいだろう。

 さすがにこれではマズいなぁと今朝になって感じた。遅すぎる。当日に思っていればどこかに出かけることもできただろうに。しかし、仕方がないので今日から休日の過ごし方を改めようと思う。思うに、自分の普段の過ごし方で最も良くないことが二つある。

 一つは、ほぼ万年床に近いところだ。ベッドから畳になって、床がフローリングじゃないから風通し良いから毎日布団を畳まなくてもよくなったけれど、土日くらいは畳もうよ。今のペースで畳んでるときっといつかカビちゃうぞ。昼寝したかったらまた敷けばいいじゃない。そうだそうだ、そうしよう。

 もう一つが割とクリティカルなんじゃないかと考えている。それはずーっと寝間着のままで過ごしていること。自分の感覚で外と内の二つしかモードが与えられてないことが問題なのだと思う。他人の休日の過ごし方がInstagramTwitterなどで見えるようになったとはいえ、比較的きれいな部分しか見えてこないので家で飾らない生活をしているときの皆を知らない。ひょっとしたら家でも着飾ってる可能性はあるが、僕はみんなが家ではダラダラしていることを切望している。いや話の流れが支流にいってしまったが、その「外と内の二つのモード」ではダラダラと過ごしてしまう考えになってしまうのも仕方がない。

 ということで、今週迎える予定の土曜日に際し、もう一つのモードを据えることにした。それは「ノータイムでコンビニに行けるモード」だ。人はそれを部屋着と言う。部屋着では範囲が狭いので近所のローソン、いや彼女を送り迎えできるように駅まで行けるような服を。「半径1km着」を所望する。

 僕は寝間着でコンビニにいける感覚を持ってない。それは寝間着がダサいとか寝間着じゃ寒いとかそういうことではなく、ケの中にある更に奥のハレとケ的な、そういう感覚に近い。コンビニに行くにも相応の格好を求めてしまうので、仕方なくそのまま会社に行けるような格好を準備する。そこまでしっかりと準備することが億劫なので、外に出ること自体を選択肢の中から排除して、外に行きたい気持ちはあるのにそれをしない。このままじゃダメだぞということで、寝間着 → 部屋着 → 外着 の段階を踏む。

 オススメの部屋着を教えてください。今のところ、ユニクロのエアリズムをインナーにしてそれを回しつつ、グラフィックTシャツと暖かめのパーカーを羽織る形で上は乗り切るつもり。下は何らかの寝にくそうな素材のベルトの要らないパンツを考えている。この格好では寝てはイケない。寝るときは、寝間着を着て、布団を敷き直して、寝ましょう。