マレーグマの頭のなか

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読書感想文:暇と退屈の倫理学

 

 今年1月に買って、二、三日程度で250ページほど読んでからすぐインフルエンザに罹ったり、そのまま長期休暇に入って旅行に行ってしまったので結果的に読み切るまで2ヶ月ほど掛かってしまった。この本と出会ったのはいつだったか、会社のランチを終え、青山ブックセンターに立ち寄ったときに一際赤い表紙に目が行った。そして手にとって、題字を読み、これはきっといつか買わなくてはいけないだろうと思ったのを覚えている。

 

 「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」をテーマに書かれている。先日の「メディアアート鑑賞 覚書」を書き終えて数時間後に残り100ページほどを、読み切った。結論以外ほとんど読んでいるとはいえ、自分に驚いたことがある。というのも、結論に先日の記事と同じようなことが書いてあった。この本の結論まで内容が、きちんと自分の体に知識となって根づいていたのだ。退屈と向き合うためには、世界と向き合って、自分とも向き合う必要がある。この時差があったことは大きなインパクトを与えた。決してこの本は薬じゃない。処方箋に近いかも。この処方箋に従って、過ごしてみよう。

 

 人生は、暇で、退屈である。熱中できるものがない、覚悟がない、やりたいことはない。与えられた積み木で遊んでいれば、ある一定のルーティンをかまして満足はするだろう。この退屈感は慢性的で、日本に蔓延る風土病か何かだと思っていた。誰しもが退屈と興奮の矛盾からは逃げられない。これが分かっただけでも十分だった。

 消費をしない。マーケティングを生業としている会社に勤めている身からすれば、自分がやっていることと退屈から抜け出すためにやるべきことは矛盾しているかもしれない。情報を不可し、その情報を享受させ、その差/記号に金を払ってもらう。本当はそんなもの、必要ないのに。記号化されたものは際限なく湧き出す。我々は食事ではなく、情報を食べている。そんな漫画の一コマは決して嘘ではない。自分を信じられなければ、誰かが不可した情報という添加物で味を感じるしかない。この事実に気付き、日々困惑しつつ、どうしようもできない自分に苛立って焦燥感を浴びていたのかもしれない。

 

 物語の主人公は何かにいつもと違うところに気付かなければ、物語が始まらない。彼らは何にでも刺激を受け、感じている。彼らは退屈することがない。退屈しても、すぐにまた新しい何かを見つけたり、何かに囲まれたり、ひょっとすると巻き込まれたりするかもしれない。僕らもそれをすればいいだけだった。結論は思ったよりも普通だったり、当たり前のところに着地しているかもしれない。結果的に、自分が取ろうとしているスタンスが間違っていないという証左になってくれただけでこの本は価値のある物として本棚に収まる。

 

 この本を読めない人は、序章と結論だけ読んでみればいいと思う。大きくはそこに文字として書いてあることが全てだ。しかし、結論を読めば、この本を読む過程における意味が大事であって、文字として書いてあるその言葉には危うい語弊が生まれるかもしれない。だから、この本を読もう。