マレーグマの頭のなか

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半径1km着

 土曜日は夜に飲み会があったので、夕方まで平昌オリンピックを見ながらずーっとゴロゴロ。そして日曜日にも何も予定が無かったので、15時まで布団で夢つつつ、その後はずーっとゴロゴロ。いつもと同じ時間に眠り、いつもと同じ時間に起きて会社へ向かった。この二日間で生産したのは二酸化炭素くらいだろう。

 さすがにこれではマズいなぁと今朝になって感じた。遅すぎる。当日に思っていればどこかに出かけることもできただろうに。しかし、仕方がないので今日から休日の過ごし方を改めようと思う。思うに、自分の普段の過ごし方で最も良くないことが二つある。

 一つは、ほぼ万年床に近いところだ。ベッドから畳になって、床がフローリングじゃないから風通し良いから毎日布団を畳まなくてもよくなったけれど、土日くらいは畳もうよ。今のペースで畳んでるときっといつかカビちゃうぞ。昼寝したかったらまた敷けばいいじゃない。そうだそうだ、そうしよう。

 もう一つが割とクリティカルなんじゃないかと考えている。それはずーっと寝間着のままで過ごしていること。自分の感覚で外と内の二つしかモードが与えられてないことが問題なのだと思う。他人の休日の過ごし方がInstagramTwitterなどで見えるようになったとはいえ、比較的きれいな部分しか見えてこないので家で飾らない生活をしているときの皆を知らない。ひょっとしたら家でも着飾ってる可能性はあるが、僕はみんなが家ではダラダラしていることを切望している。いや話の流れが支流にいってしまったが、その「外と内の二つのモード」ではダラダラと過ごしてしまう考えになってしまうのも仕方がない。

 ということで、今週迎える予定の土曜日に際し、もう一つのモードを据えることにした。それは「ノータイムでコンビニに行けるモード」だ。人はそれを部屋着と言う。部屋着では範囲が狭いので近所のローソン、いや彼女を送り迎えできるように駅まで行けるような服を。「半径1km着」を所望する。

 僕は寝間着でコンビニにいける感覚を持ってない。それは寝間着がダサいとか寝間着じゃ寒いとかそういうことではなく、ケの中にある更に奥のハレとケ的な、そういう感覚に近い。コンビニに行くにも相応の格好を求めてしまうので、仕方なくそのまま会社に行けるような格好を準備する。そこまでしっかりと準備することが億劫なので、外に出ること自体を選択肢の中から排除して、外に行きたい気持ちはあるのにそれをしない。このままじゃダメだぞということで、寝間着 → 部屋着 → 外着 の段階を踏む。

 オススメの部屋着を教えてください。今のところ、ユニクロのエアリズムをインナーにしてそれを回しつつ、グラフィックTシャツと暖かめのパーカーを羽織る形で上は乗り切るつもり。下は何らかの寝にくそうな素材のベルトの要らないパンツを考えている。この格好では寝てはイケない。寝るときは、寝間着を着て、布団を敷き直して、寝ましょう。

日記:180213

今日はゆっくりと仕事しようと思う。2週間ぶりの出勤で、正直脳みそがついていけてない。早速メールが取引先から届いたけれど、急ぎのメールではないので取り急いだ何かを送る必要はない。そもそもこの人は急いでいるときは電話をガンガン掛けてくるから大丈夫だろう。

 

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ちょっと前にお笑いにハマっていた時期があった。といっても、AmazonPrimeビデオにてM-1グランプリを初回から10年分見たり、ドキュメンタルを見たりといった程度だったが。いろいろなお笑い芸人の動画や音声を見ているうちに、最終的に島田紳助松本人志に自然と目がいく。結果、松本紳助の短く編集された動画を見たり、紳竜の研究を見たりした。松本紳助で彼らに「何故、お話がおもしろいのか」という疑問を投げかけた視聴者に対するアンサーが良かった。「同じものを見ても、どうしたら面白いのかを常に考えている。起こった事象に対しての解像度や想像力を持って何事も見ている」と言っていた。似たようなことを紳竜の研究でも言っていた。「同じキャベツを見ても、料理人はどう料理するかを考えて見ている。素人はキャベツをそのままで見ている」と。一つの事柄からいかにいくつもの受け取り方をできるか、そしてそれを言葉にしてアウトプットできるかというところまでをしなくてはいけない。

やまとなでしこ 2018

 今年もやってきた。”やまとなでしこ” を見たくなる衝動がやってきた。最も好きなドラマだ。これ以上に好きなドラマは無い。一年に一度は何故か見たくなる。彼岸に合わせて咲くヒガンバナのように、何かに合わせてこの衝動が蘇る。

 前回見た記録を掘り起こすと、三年前の3月、ちょうど彼女と別れてモヤモヤとした気持ちと共に、友人と生牡蠣を食べたところ、見事にノロウィルスに罹ってしまってしんどい状態になっていたときだった。今回見たくなったタイミングも同じくインフルエンザに罹ってそのまま長期休暇に入ったタイミングだった。

 肉体的なしんどさも相まって、さらに精神的にしんどくなったときに過去の好きなものを摂取したくなるんだろう。大体年に一度は心身共にしんどくなることはある。次の彼岸が来れば、また咲いてるんだろう。

 同じものを、違う状態で見たときに感じ取る結果は変わる。毎度これを見て、違うところに気がつく。毎度同じセリフで、違うところを反省する。

買いたい本

 

青山ブックセンターに行って、買いたいと思った本

 

◆ インターネットは自由を奪う ー <無料>という落とし穴

著者:アンドリュー・キーン

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ゲーム理論はアート 社会のしくみを思いつくための繊細な哲学

著者:松島 斉

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◆ 我々は 人間 なのか? ー デザインと人間をめぐる考古学的覚書き

著者:ピアトリス・コロミーナ / マーク・ウィグリー

http://amzn.to/2BiJ16h

 

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論文を当たると言ったものの、割と普通な本を漁っていた。

基本、目次だけ読んで判断している。

個人的にはこれらも論文に近いものだと思っているので、今の本を読み終わったらこの三つの中から選んで読んでみようと思う。

個人的には真ん中の「ゲーム理論はアート」を買ってみようか。

快復した

 史上最弱のインフルエンザはしんどかったの一言に尽きる。体温は結局38.7℃まで上がり、一日に何度も何度も体温を測った。何度測っても変わっていないのに、しんどすぎて測定された数値が0.1℃下がって少し安心するのを繰り返していた。緊箍児を嵌められたような頭痛は治った後もジンジンと側頭部に違和感を残していった。

 

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 何年もブログをやっているので「こういうこと書こっかな、あ、でもブログに書いたような気がするんだよな」と思って毎度検索する、そして大体書いていない。なんだろうこの感覚は。デジャブとも違う、ある程度確信を持った記憶の勘違い。「こういうこと」はほとんどが自分の中で確固たるものや分かっている癖が多い。いつも思ってることだから書いてるだろーって思ったら書いてない。意外と外に出してないもんだなと。

 

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 病気のとき、快復が近づいたあたりで似た内容の夢をみる。人を殺す夢。熱があるときは大体この夢を見て、汗びっしょりになって、飛び起きる。朝の光とともにスッキリと熱が引いている。僕の中ではあの夢は、きっと熱の原因をやっつけてくれている象徴である。早くこの夢を見て欲しいと思って寝ていた。しかし、今回は見なかった。しかし回復していた。何度も殺した誰かがいなくなってしまったんだろうか。なんとなく寂しかった。