マレーグマの頭のなか

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目的地と楽しみ方

 デートの場所を決める時に、みんなどうしているのだろうか。急にこんな高校生みたいな素朴な疑問が出てきてしまった。よくよく思い返してみると、自分から「どこどこ行きたい」って言うことは今まで3割無かった気がする。おおよそ相手がどこに行きたいというので、はいはい行きましょうと言いながらついていくことばかりだった。

 自分でも驚くくらいに欲がないので、やはり行きたい場所というのも出てこない。そもそも行きたい場所というのは何なんだろう。何か目的があるのだろう。例えば紅葉が見たいから日光に行くとか、温泉に入りたいから熱海に行くとか、安藤忠雄の展示が見たいから六本木に行くとかそういうどこかに目的を決めて行き先を決めることが普通なんだろうか。先週末は三沢厚彦の展示を見るために渋谷区立松濤美術館に向かった。家からもそこまで遠くないし、入館料500円の破格だし、現代彫刻割りと好きだからちょうどよかった。そう、多分何かしら天秤に掛けまくってちょうど釣り合っているものしか選べられないのだ。大抵の場合、天秤に予め乗っている分銅は手垢ついて錆びまくった ”自宅” であることは確かなのだが。

 こういう話を吐き出していると、そういえば小さい頃は家族以外と遠出することがなかなか許されなかったことを思い出す。団地が山の上にあるためか、都会に出歩くためには山を降りなければいけない。しかし、それには危険が伴う…ってなんか熊の親子みたいな話になっているけれど、つまりは自転車で鼻歌を歌いながら行けるような距離じゃないってことだ。でも、たまに土曜の半ドンが終わったら、友人と歩いて今で言うところのイオンモールみたいなところにあるゲームセンターに行ったりしていた。まぁ小中学生の9年間で両手で数えられる程度の回数しか行ってないけど。お金も無かったし、目的地に着いても割と手持ち無沙汰で、周りの友人が何かを買うのを見ることしかやることがなかった。自分の中では目的地が最も面白いという概念はあまり大きくないように学習してしまったのかもしれない。

 高校生になってからは、都会の高校に通った。バスで山を降りて、最寄りの駐輪場から自転車で学校まで行っていた。およそ50分程度の道のりだ。都会とはいえ、あまり遊びのある場所には向かわなかった。それよりも友人と居る方が楽しかったからだろう。そして真面目な自分は部活か勉強しかしてなかった。バイトも禁止だったし、毎月のお小遣いは新しいステータスであるソニーの携帯電話でほとんど消えていった。自制心だけが強く育った子供。ただ、やっぱりお金を消費をせずにいつもと同じことをし続けるのはあまりにも面白くなかった。そこで編み出したのは駅から目的地までの自転車をほぼ毎日違うルートを使って通学することだった。毎日ほんの少しだけ違う道を通ることだけが楽しみだった。ここに誰かの家があって、喫茶店があって、猫がいて、犬がいて、川が見えて、ちんちん電車が通っていて、駅と繋がっている道を見つけて喜んでいた。

 目的地までの道のりをどうにか自分の意志で進むことだけが自分の娯楽の楽しみ方だった。だからこそ、自分にとって目的地メインであるデートの行き先を決めることは難しい。このやり方に付き合わすわけにはいかないとも自分では思っている。この楽しみ方が変わるとも思えないが、もうちょっと目的地で楽しむ術を学んでいかないとなと、週末になるたびに思うわけである。