マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

20180508

 何か書かなくてはいけない。この焦燥感は、現実の耐え難い無生産の状態と時間が過ぎ去っていく謂わば大学生の夏休みを満喫しながらも銀行口座には毎月お金が一定額振り込まれているという奇妙な状態から抜け出したいということなのだろう。しかし書きたいことも、書くべきこともない。ただ頭に浮かぶ文字を、指を通じてキーをタイプしている。この状態はきっと白昼夢やドラッグに依存している状態に近い。24時間フワフワしている。朝起きて、意味もわからずに出勤し、夜寝る前になって初めて今日が終わることを知る。何かを書く、この無駄な足掻きが何の解決にもならないことは知っている。沼は足掻けば足掻くほどに深く沈み込んでいく。この沼から抜け出す術を知っている僕はそのカードを切らないただのマヌケだ。

ハイライトはどこにある

 最近は家に帰るとカープの野球の続きを観戦するか、友人がネットに垂れ流しているゲーム実況を眺めながら過ごすかしている。カープは調子悪いながらも順調に勝ち星を加え、首位をひた走っている。なのでそこまで言うこともない。日本語話者にとって大事なものは後に述べることなのだ。そう、ゲーム実況を見ているということだ。

 

 Twitchというゲーム配信プラットフォームがある。プロゲーマーもそこで配信していて、毎朝毎晩世界中の人たちが自分のプレイを見せながら、投げ銭を得て収益をあげている。僕の友人は昔から趣味で酒を飲みながらゲーム配信をしている30歳のおじ、おにいさんだ。何千人も視聴者がいるプロゲーマーと違って、50人にも満たない昔からの視聴者に向けて酒に酔いながら、快活な笑い声を出しながらゲームをしている。彼はPlayer Unknown’s Battle Grounds(PUBG)というゲームをしている。オンライン上でログインしている100人を一つのフィールドに集め、そこら辺に落ちている武器を拾って殺し合いし、最後の一人まで生き残るゲームだ。物騒だなと思う方もいらっしゃると思うけれど、そこはゲームなので。

 

 僕はPUBGの生放送は見る。しかし、PUBGの動画は見ない。そこには明らかにゲーム的な面白さが差っ引かれている気がするからだ。どんなにマヌケな負け方をしても、それがコンテンツになる。

放送を切り取られたこの動画は何回見ても笑える。しかし、見事に、情けなく負けている。下手なことがコンテンツになる。下手が面白いことは永井先生ピアキャス時代から変わってない。このくだらない時間を一緒に過ごした事実が余計にその面白さを加速させている。

 一方、動画は何かしらの結末が必要だ。そして、その結果としては、クリアの概念があるゲーム動画や勝利した動画、またはいわゆる神業の動画がほとんどだ。能動的に見に行ったものに対しては「あー、この動画を見てよかった」「メッセージをちゃんと受け取ったぞ、明日から頑張ろう」みたいな高揚感がないと満足感を得られないからだろうか。動画であれば、下手な人が上手くなっていく様子を見せる必要があるが、生放送では一生下手くそでも問題ないのだ。むしろそれが求められる場合も多くあるだろう。

 僕にとっては生放送は結果はオマケで、過程が大事なのだ。結果が良ければもちろん良いが、結果が負けていても、過程がハチャメチャだったりするだけで満足感がある。翻って野球はどうなのか、野球はペナントレース優勝に向けて駆け上がっていく必要があるので、絶対に結果が伴っていないとダメなのだ。20対19で負けてしまったら、どんな打ち合いをして、どんなファインプレーを連発しても意味がない。負けた翌日のスポーツニュースやらまとめサイトは見ないようになってしまう。勝ったらハイライトでも面白い。もちろん放送を見て、過程を楽しむのもいいが、負けてもOKとはならない。勝つことだけが高揚感に直結しているからだ。勝つこと以外に許されていない。

 

 ”生放送的” と ”動画的” で求められている事柄が違うとすれば、この2つの差に気づかずにミスを犯している場面がたくさんある気がしている。誰しも持つ虚栄心から自分を大きく見せたがるが、そうじゃない生放送的な、何かするだけでいい場面が多くある。結論がないこのブログは自分の中では生放送的な部分が強くあったが、ひょっとしたら動画的に結論を欲している人が見に来てくれているかもしれないと思うと、申し訳なく思う。

同時代

 先日、先輩の演出家を招いて社内で勉強会を開いた。テーマは「ナラティブとは何か、そしてそれに掛かる演劇史について」をメインに、演出家の方が以前ルーマニアで公演したものはどういった順序で構成されていったかを話してもらった。とはいえ、この話題は普段から僕と先輩がファミレスでぺちゃくちゃとドリンクバーから汲んできた飲み物を片手にくっちゃべってる内容なので僕は相槌を打ちつつ聞いていただけだったが。

 ことにこの公演についてはここに書くことはしない。今回はそれよりも大事と感じたことを書く。

 結局のところ、僕らがビジネスの文脈で考えることと誰かがアートの文脈で考えられていることというのはリンクし、同じ言葉が使われていく。そういった世間の様相が見える。勉強会終了後、エントランスで立ち話していて出た結論としては、この「同じ言葉が使われていく」ということは、単純な同時代性から出た産物なのだろうということだった。どちらかから発生した言葉を「おっ、いい感じのニュアンスを持った言葉があるじゃん。拝借していきますね」と他方が借りて使う。1995年頃の新興宗教の活動と爆発的人気のアニメの世紀末思想から生まれる暗さだったり、ニュートンライプニッツが遠い場所で微積分を思いついたり。分野や場所が違っても、これまでの歴史のコンテキストと同時代性により、同じような感覚を持たされた我々は同じような危機感を持っている。同じ時代には同じような教養が浸透し、同じような事件が各地で起き、同じような武器を持ち、同じような不安を抱え、同じような希望を持った我々が、同じような成果が産む。

 成功している人は、その同時代性を汲み取り、具現化した人なのか。Empathy を感じさせ、Empathy をする人が今の時代の波に乗るのか。

最近面白いと思ったもの 20180416

最近面白いと思ったもの

 

jp.automaton.am

 3DSではカセット一つ、プレイヤー複数人プレイができるゲームはいくつもあれど、PS4やSteamでこういう無理矢理感あふれるアプローチは初めて見たかもしれない。過去にはあったが、それがゲームの面白さと見合ってなかったから表出してこなかったのだろうか。

 そして中身も、ゲーム画面のレイアウトも進行や場面に応じて変形していくというのも面白い。漫画のようなコマ割りを連想させる奇抜なレイアウトは、モード選択時のフレーバー的要素でしか無かったが、プレイにどう影響するだろうか。視点がばらついて面倒に感じるだろうか。そういえば、先日なんだったか、Youtubeかなにかを見ていて感じたことがある。縦型動画をPCで見た。正直言って見づらさしか感じなかった。縦型動画が流行ったというのは視点が間違っていて、単純にメディアやインターフェイスに合ったコンテンツを作ろうというだけの話でしかない。単純に、漫画だってテレビだってスマホだって丸型のディスプレイだって、そのディスプレイいっぱいを使ってコンテンツを見ることが最も不愉快な気持ちなく見れる、ただそれだけだ。

 またゲームに戻るが、きっとどちらのキャラクターをプレイしたか、両方プレイしたかによってプレイヤーの自身の語りも変わってきたりするのだろうか。輪読のように、違う文脈を持った人が同じ情報や出来事を見ることで理解や解釈が変わっていき、それを重ね合わせることに意味があるゲームのように感じる。PS4が二台ということは、Discordなどで通話しながらプレイしたりするだろうが、実は全く別の画面を見ていたということはあるかもしれない。一方はクルマを運転していて、一方は宇宙船を運転しているなんてこともあるかもしれない。マテリアルがすり替わるだけで体験は全く変わっていく。セリフが同じでも場所によって感じ方は変わる。そういう可能性をこのゲームに見た。

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 過去を消すということをしていると、自分が過去に許可や拒否した可能性に気付かなくなる。僕にとって気分によって過去を消すことは非常に重い。やりたいことは分かる。人間は年をとるごとに考えや身体的な機能がアップデートされるから、基本的に過去は恥ずかしく感じる。恥ずかしくないことを書けというのは、何も書くなと同じことで、やはり過去の自分を受け入れていく必要がある。今書いてることですら10年後にはおかしいと思うときがくるかもしれないが。

 イラク派遣された自衛隊の日報が面白いのは、ゲームに置いてあるメモ書きを集めるのと似ているからだと言われている。その消されかけた断片を集めると、当時、何をしたのかが見えてくる気がする。自分は自分のことをよくわかっているとタカをくくらずに、断片を集めることのできるようにしておくことが、今できる先に繋がることだと思う。

相似形を見つけよ

 これは心配なのか、お節介なのか、それとも不愉快になっているのか。自分でも分かっていないのだが、とかくまぁ気になっていることがある。端的に申し上げると、後輩の話がものすごくつまらない、のだ。その形はどんなでも。対面で喋ってても、SNSに投稿するにしても、だ。「うるせーうるせー、お前の話も大して面白くもねぇじゃねぇか。大口叩いてんじゃねーぞ!」とツッコミが入ると、僕も「へぇ、すいやせんでした」と両手と額を床につけ、ただただ平伏するしかないわけだが、それにしてもつまらない事実は変わらないのである。

 

 はて、何が一体つまらないのか。いや、そう感じさせるのか。今読んでる人たちはどれだけつまらないんだと期待値が上がっているかもしれない。つまらなさの期待値は上がれば上がるほどつまらないのか、面白いのか。果たしてどっちなのか気になるところだが、そんなことはどうでもいい。ただ、つまらないのだ。具体的に言えば、

 「こういうニュースがありました!」

 「これ勉強になります!」

 「これ良かったです!」

こんな感じ。えっ、思ったよりつまらなくない?いや、つまらないんだって。期待値が謎に上がりきってしまった故にこういう事故が起こる。それは置いといても、きっと皆に期待する返答があるんだろう。このコミュニケーションのやり方ってば、TwitterでRTしかしない人と同じなんだ。あんたはRSSか何かなのか?それだったら人間RSSじゃなく、静かなシステムの方を使いますよ。

 

 僕は基本的にそういう人はフォローしないし、しがらみの中でフォローしててもミュートしてる。明確に自分の中でコミュニケーションの足切り対象になっている。一方、自分の意見や経験を添えているなら問題ない。何か添えるにしても、全く違う分野から相似関係の現象を引っ張り出してくれる人は稀だけど特にありがたい。ああ、何か見えてきた気がする。おそらく、自分との共通部分の確認作業としてのコミュニケーションはつまらなく感じてしまうのだ。昭和のコミュニケーションである「昨日のテレビ見たー?」から始まるジャブは鬱陶しいのだ。「山、川」の合言葉を示されても我々は味方であるというサインでしかない。そこに安心感と馴れ合いが産まれるだけだ。ご存知の記号と記号を掛け合わせても「あっ、これ知ってる!」と脊髄から信号が走り、一見面白いように感じるだけだ。スムーズに電気信号が走ることで面白いや好きを勘違いしている。そういう風に人間はできている。しかしそうじゃない。自分はあなたが知らないけど面白い(と自分が思っている)ものを持ってますよ、よってらっしゃいみてらっしゃいって流浪の商人がやってきたようなコミュニケーションが僕にとっての ”真” だ。

 

 というかですね、「百聞は一見に如かず」なんですが「百見は一考に如かず」だし、更に「百考は一感に如かず」なわけです。今適当に作りましたけど、言葉にするというのはそういうことです。今見知ったことなんて、1回体感したことの1万分の1倍程度しかない。少し見ただけのものを「面白い」なんて一言で済ませたくないです。それなら自分の知ってる範囲のことと結びつけて話すべきだ。それが真摯な情報への態度だと、僕は思う。ここまでダラダラと愚痴を書いてしまったものの、これは完全に反面教師にするつもりで書いてます、はい。僕のような中途半端に広く、限りなく浅い知識だけの人間は、様々な分野において相似形を見つける能がしかないんです。少しでも多くの物事を繋げて意味のある事象を見出だせればと、僕は思うわけであります。