マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

ハイライトはどこにある

 最近は家に帰るとカープの野球の続きを観戦するか、友人がネットに垂れ流しているゲーム実況を眺めながら過ごすかしている。カープは調子悪いながらも順調に勝ち星を加え、首位をひた走っている。なのでそこまで言うこともない。日本語話者にとって大事なものは後に述べることなのだ。そう、ゲーム実況を見ているということだ。

 

 Twitchというゲーム配信プラットフォームがある。プロゲーマーもそこで配信していて、毎朝毎晩世界中の人たちが自分のプレイを見せながら、投げ銭を得て収益をあげている。僕の友人は昔から趣味で酒を飲みながらゲーム配信をしている30歳のおじ、おにいさんだ。何千人も視聴者がいるプロゲーマーと違って、50人にも満たない昔からの視聴者に向けて酒に酔いながら、快活な笑い声を出しながらゲームをしている。彼はPlayer Unknown’s Battle Grounds(PUBG)というゲームをしている。オンライン上でログインしている100人を一つのフィールドに集め、そこら辺に落ちている武器を拾って殺し合いし、最後の一人まで生き残るゲームだ。物騒だなと思う方もいらっしゃると思うけれど、そこはゲームなので。

 

 僕はPUBGの生放送は見る。しかし、PUBGの動画は見ない。そこには明らかにゲーム的な面白さが差っ引かれている気がするからだ。どんなにマヌケな負け方をしても、それがコンテンツになる。

放送を切り取られたこの動画は何回見ても笑える。しかし、見事に、情けなく負けている。下手なことがコンテンツになる。下手が面白いことは永井先生ピアキャス時代から変わってない。このくだらない時間を一緒に過ごした事実が余計にその面白さを加速させている。

 一方、動画は何かしらの結末が必要だ。そして、その結果としては、クリアの概念があるゲーム動画や勝利した動画、またはいわゆる神業の動画がほとんどだ。能動的に見に行ったものに対しては「あー、この動画を見てよかった」「メッセージをちゃんと受け取ったぞ、明日から頑張ろう」みたいな高揚感がないと満足感を得られないからだろうか。動画であれば、下手な人が上手くなっていく様子を見せる必要があるが、生放送では一生下手くそでも問題ないのだ。むしろそれが求められる場合も多くあるだろう。

 僕にとっては生放送は結果はオマケで、過程が大事なのだ。結果が良ければもちろん良いが、結果が負けていても、過程がハチャメチャだったりするだけで満足感がある。翻って野球はどうなのか、野球はペナントレース優勝に向けて駆け上がっていく必要があるので、絶対に結果が伴っていないとダメなのだ。20対19で負けてしまったら、どんな打ち合いをして、どんなファインプレーを連発しても意味がない。負けた翌日のスポーツニュースやらまとめサイトは見ないようになってしまう。勝ったらハイライトでも面白い。もちろん放送を見て、過程を楽しむのもいいが、負けてもOKとはならない。勝つことだけが高揚感に直結しているからだ。勝つこと以外に許されていない。

 

 ”生放送的” と ”動画的” で求められている事柄が違うとすれば、この2つの差に気づかずにミスを犯している場面がたくさんある気がしている。誰しも持つ虚栄心から自分を大きく見せたがるが、そうじゃない生放送的な、何かするだけでいい場面が多くある。結論がないこのブログは自分の中では生放送的な部分が強くあったが、ひょっとしたら動画的に結論を欲している人が見に来てくれているかもしれないと思うと、申し訳なく思う。