マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

日記:180125

今朝まだ太陽が昇ってないくらいの時間に、ムクリと起きた。隣の部屋の、またその外の室外機が異常に唸っていた。今日は平成始まって29年間で一番寒いらしい。昭和63年生まれの僕が生きてきた間で最も寒い夜だ。

「あれ、エアコンの設定温度20度以上にしちゃったっけか」

さして新しくもないエアコンは室温と設定温度に3度以上の差があったときに室外機が騒ぎ出す。それにしても今日の唸り具合は、知らない人が入り込んだ家の番犬くらいの騒々しさだった。エアコンのリモコンの液晶を見るために、天井からぶら下がる紐を引く。室温が9度だった。設定温度との乖離が10度もあったら、そうだなと、納得して、消した。

飼っているハリネズミの様子を確かめた。針は、呼吸と同期しながらうごめいて、ねていた。僕はまだ体温で温まったままの布団に戻った。

貧乏暇無

WIRED vol.30 國分功一郎と熊谷晋一郎の対談で「アイデンティティ」をテーマに二人で語っている。次に読む予定の本が「中動態の世界」なので、一旦読んでおこうと思ったのと、メモったのでそれを貼っつけておこうと思った。

各章に対して、抜き出したり、まとめたり、一言書いている。

 

:退屈

いまの人は「きちんとよく噛んで食べる」べき。

非行少年は最もしんどい現象に「暇」と名付け、薬物を使った。 

:寂しさ

「孤独」= 自分自身と一緒にいるとき。

「寂しさ」= 孤独ではいられず、他人を求めてしまうとき。

 

:知覚と記憶

期待や予想を裏切る経験を傷と呼ぶ。

「知覚」=今まさに与えられた傷

「記憶」=過去に与えられた傷

人はそれを回避するはずなのに傷を求める振る舞いをする。新しい知覚の傷をつくることで、古い記憶の傷の痛みを癒すトレードオフの関係になっている。

:物語

同じ出来事が何度も起こればパターンとして受け入れられる。複数の主体間で共有できる出来事を物語という。パターンは一人でも作り出せるが、物語は他者を必要とする。

アイデンティティは「パターン」と「物語」で形作られる。しかし、トラウマを背景に持つ人はそれを他者と分有する物語に出来ず、古傷になってしまう。暇なときにそれが疼く。それが辛いので、知覚としての傷を加える。「いま・ここ」に身を置き、過去を遮断してしまう。

:意志と責任

「意志」というものは基本的に存在しない。

あなたが人生に何かを期待するのではなく、あなたが人生か何を期待されているのかを考えること、それが「責任」。

「選択肢から自由に選んでください」と半ば強制的に選択を求められる一方で「でもあなたが自分の意志で選んだのですからその結果はあなたの責任です」と言われてしまう。

:覚悟

覚悟は絶対に切れない物事の因果関係のなかに自分がいて、その運命を我がものとすること。

切ることができない流れを自分で引き受けながら働きかけていくこと。

:夕暮れ

過去と向き合わず「切断」しようとする戦略には限界があるが、決して悪ではない。

過去を切断する能動態的な生き方と、過去を引き受ける中動態的な生き方を使い分けながら生きる。

日中は切断し、夕暮れに日中を振り返りつつ反省する。どちらにも機能がある。

:対話

人と話さないと人間はどんどんろくでもないことを考えて行き詰まる。

人に伝えることが治療の効果を持つ。

:傷

自分で自分を痛めると、慣れて傷が予測可能になってしまう。すると自傷行為は慣れに抗うためにエスカレートしてしまう。

:人間の運命:アイデンティティ

人間は本性に反して矛盾を求める。

Human Fate:過去から得た傷でできた自分

Human Nature:傷が生じる前、生まれたときから備わっている特徴や傾向性

この2つが人間のアイデンティティの基盤になっている。

 

結論らしい結論が無い対談だったが「覚悟」という言葉が出てくるとは思わなかった。その言葉は自分にとって大事なものであり、かつないがしろにしているものなのだからだ。二冊を読めば、きっと何か少しは理解できるだろうか。

 

読書感想文:手書きの戦略論

 2年前くらいだったか、まだ自分の席が端っこだった頃。会社で話題になっていたこの本。めちゃんこ良い本だから、プロデューサー陣は全員読んどけよと社長から配られているのを見ていたフロントエンジニアがいた。僕だ。そしてちょうど今年一年戦略立案から関わってみて、この本を読んでみた。確かにブランド論からIMCから最近のソーシャルメディアに関してもちゃんと書かれていた。

 めちゃくちゃ平易に誰でも分かりやすく書かれているし、割りと時系列にも整理されているのでプランナーの人たちはバイブルになりえるかもと思った。まぁ正直どんな人でも役に立つ内容。ただ、やっぱり浅く広くといった感じなので、詳しさ的にはデイビット・アーカーのブランド論とかを一冊読むだけで深さが担保されていいかもしれない。先にブランド論読んでて復習できたので非常によかった。

 たったひとつ、手書きの~って書いてある、確かに図やチャートは手書きのイラストだったけど、特に手書き関係無かったように思えた。でも、絵柄可愛くて好きです。

精神修行

 さくじつ、雪が降った。4年前の大雪以来の、約20cmも降り積もった。

 首都圏で雪が降るということは少なくとも経済活動を妨げる災害であって、交通網は麻痺し、飲食店の予約キャンセルは殺到し、履いている靴下は足先まで濡らしてしまう。僕ら大人にとっては決して喜ばしいことではないだろう。かといって、僕らは母のお腹から産まれてからすぐに大人になったわけではなく、高校入学くらいまで、おおよその ”なりたくない大人像” ができる頃までは総じて子供だった。だから雪が降ると、あの頃に雪が降ったときの楽しさを思い出すかのように少しだけ心がワクワクするような気がしている。

 家に庭がある。一人暮らしにしては贅沢な環境に住んではいるが、隣近所も住んでいるために特にBBQができるわけでもなく。夏には雑草が至る所に生え散らかし、冬には屋根から雪が落ちてくる「ドサッ」という音で声を出して驚かされる。生活の潤いは厄介者にみかじめ料を渡さないと与えられないのだ。昨夜はそんな庭で雪だるまを作った。

 雪だるまといっても、Twitterに流れてくるような立派なものではなく、高さ50cmくらいの小さなものだ。一人で寒い冷たいと嘆きながら作った。他人には「この際すごい雪だから楽しもう」なんて言っておきながら、滝行や護摩行をしているような辛さを味わっていた。楽しくなかったわけじゃない。ただ、無理して楽しんでいたように感じた。きっとそばに何かが誰かがいるだけで、違ったのだろう。自分の動機にコミュニケーションが必要なことは二度と変わらないのであろうなと作り終えた雪だるまを外に放置して、暖かい部屋と暖かい風呂と暖かい布団で一人を噛み締めた。

セロリ

セロリは割りと好きだ。さして思い出などはないのだが、初めてセロリを食べたときに「なんて不思議な味なんだろう。この味はきっとセロリでしか食べられまい」と思ったことは覚えている。そのときに食べたのはセロリの酢漬け、ピクルスだったはずだ。何故好きか。まずは上に上げている唯一無二の野菜だと思うところ。人参や大根は頑張れば代替物はあると思う。しかしセロリはセロリ以外の食べ物で代用不可だろう。シャキっとした歯ざわりの後、独特の香りと苦味が鼻を抜ける。セロリを食べたとき、セロリを食べている感覚が全身を包むからだ。そして、意外とコンソメスープに入れても味が染み出してスープが全てセロリ味になることもなく、セロリをかじって初めてに閉じ込められた旨味とコンソメスープが相まって美味くなる。そう、育った環境が違うから好き嫌いは否めないけど、セロリは美味い。