マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

メモ

 対面の日常会話の中で狙った大ボケやノリツッコミをかますと、概ね途中で話を遮られる。もしくは言ってる最中に「こいつは今ボケてるから話半分に聞いた方がいいな」みたいな顔色を話してる側が察知して急激にテンションが下がってしまい滑った形になりやすい。漫画とかドラマだと相手がちゃんと聞いてくれる描写があるけれど、現実世界ではそんなことはノリの良い人じゃないと起こりにくい。

 その代わり、Twitterとかの文字ベースでのコミュニケーションだとちゃんとボケを最後まで読んでくれる。「なんじゃいコイツは」みたいな顔色をされてる可能性もあるが、最後まで言い切れるという快楽は得られる。出し切ったあとに、相手からのリアクションが返ってくる。返報までの時間は有限だが、相手次第でゆっくり返すこともできる。その繰り返しだ。

 前者のリアルタイム性が求められるコミュニケーションはサッカーやバスケットボール、後者のターン制のコミュニケーションは野球やゴルフのような感覚だろうか。いかに反射的によいものを返すことができるか、いかに与えられたタイミングで最高のパフォーマンスを出すか。SNSなどのエンターテイメントに対しては、ターン制のサービスから徐々にリアルタイム性を求められるサービスに移っていく可能性がある。ただ、それはそれで面倒なのと同時刻に同じものを見つめる必要があるので、大変めんどくさい。ハプティックデバイスで何かフィードバック与えられたら面白かったりする…?

抱負のために

ここ数年でほぼ毎日続けられていることってなんだろう

・寝ること/起きること

・息を吸うこと/吐くこと

・ごはんを食べること

・お風呂に入ること

・トイレをすること

ハリネズミのうんこの処理をすること

ハリネズミのごはんを補充すること

ハリネズミのお水を確認/補充すること

・寝る前に歯を磨くこと

・インターネットを見ること

Twitterでつぶやくこと

・ソファに座ること

・天気/気温を確認すること

・時間を確認すること

・メガネをかけること

・服を着ること

・朝、顔を洗うこと

・マウスピースを洗浄すること

・電気を付けること/消すこと

・PC/携帯を充電すること

・玄関の鍵を開けること/閉めること

・冷蔵庫を開けること/閉めること

・カーテンを開けること/閉めること

・文章を読むこと/書くこと

無題

シェアのことを「シャア」と書く人が極僅かではあるものの、ある一定数いることは経験上分かっている。何度心のなかでガンダムかよ、と突っ込んだか分からないが、その人達は「シャア専用ザク」のことを、みんなで借りられるザクとでも思っていると信じている。

 

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周りにデキる人が多過ぎるので、デキない僕は自尊心が徐々に砕けて欠片になりかけていた。そういうときに自尊心を保つ、もしくは復活させる方法としてはやはりデキない人たちが多いグループに乗り込んでいって、自分のスキルを発揮して感謝してもらうということだろう。それなりに頑張るところが最も大事ではあるのだが。

食塩水

伝わりやすいことが良いことだと思われている。

食べ物は柔らかいものが高級で美味しいものだと考えられている。

水のようにすっと入ってきて身体に馴染んだ情報に対して、僕らはそれを憶えていられるだろうか。

 

水を媒介にして、その中に砂糖を混ぜ込む。

それを飲むことは容易だし、甘いなくらいの印象を持つかもしれない。

ただ、その感想で終わる可能性も大いにある。

だから、わざと食塩を混ぜ込んで、その水を飲ませよう。

きっと飲んだときに「うぇっ」となるし、飲んだことを後悔するだろう。

 

そんな風にさせることも一つのやり方なんだけれど、伝わりやすさばかりが取り沙汰される。

忘れないことが、本当に伝わったこととは言わないけれど、すぐに忘れるよりはよっぽどいい。

メアド

初めて携帯電話を買ったのは中学卒業後、高校に上るちょっと前かな、中学の時に買った制服をまだ捨てるかどうか悩んでいた頃。SONYジョグダイヤルというかクルクル廻るSO505isのレッドを買った。いまだに自宅に大事に保管している。携帯電話を買ってはじめにやることは、自分のメールアドレスを何にするか、だった。何か名前の無いものを得ることは初めての経験だったので、とても悩んだことを覚えている。しかし、どんなアドレスにしたかを既に記憶していない。そういえば高校3年間で3回ほどメアドを変えたからだろうか。そして、なぜだろう、あの当時は自分の名前をメールアドレスにすることは何かとてもダサいことだと思っていた。LOVE何々 みたいに臭い文章だとか 0_0 みたいな顔文字を付けることで何かを誤魔化して、直接的なものを嫌っていたように、振り返ると思う。今では新しいサービスが出たら自分の名前で取得したいし、何かしらを分かりやすい自分のアイデンティティにするべきだとも思う。それは、中学、高校と狭い世界での自分は、いつも会って話してるよりもっと広く、別の意味を持った人間なんだという主張がしたかった。それ代わって、出会いが毎日のようにあり、世界の広さも知って、別れても自分を憶えていてほしいという気持ちに変化したからなのだろうか。それとも考えることをやめたいからだろうか。価値観の変遷というのは、じっくりと振り返らないと意外と分からないものだ。グラデーションのように徐々に変化していった、ネーミングや名前を与える行為の変遷は、これからも移り変わり、次は僕の子供ができたときにどういう思いを持って、僕は彼ら彼女らに新しい意味を授けるのだろう。