マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

メアド

初めて携帯電話を買ったのは中学卒業後、高校に上るちょっと前かな、中学の時に買った制服をまだ捨てるかどうか悩んでいた頃。SONYジョグダイヤルというかクルクル廻るSO505isのレッドを買った。いまだに自宅に大事に保管している。携帯電話を買ってはじめにやることは、自分のメールアドレスを何にするか、だった。何か名前の無いものを得ることは初めての経験だったので、とても悩んだことを覚えている。しかし、どんなアドレスにしたかを既に記憶していない。そういえば高校3年間で3回ほどメアドを変えたからだろうか。そして、なぜだろう、あの当時は自分の名前をメールアドレスにすることは何かとてもダサいことだと思っていた。LOVE何々 みたいに臭い文章だとか 0_0 みたいな顔文字を付けることで何かを誤魔化して、直接的なものを嫌っていたように、振り返ると思う。今では新しいサービスが出たら自分の名前で取得したいし、何かしらを分かりやすい自分のアイデンティティにするべきだとも思う。それは、中学、高校と狭い世界での自分は、いつも会って話してるよりもっと広く、別の意味を持った人間なんだという主張がしたかった。それ代わって、出会いが毎日のようにあり、世界の広さも知って、別れても自分を憶えていてほしいという気持ちに変化したからなのだろうか。それとも考えることをやめたいからだろうか。価値観の変遷というのは、じっくりと振り返らないと意外と分からないものだ。グラデーションのように徐々に変化していった、ネーミングや名前を与える行為の変遷は、これからも移り変わり、次は僕の子供ができたときにどういう思いを持って、僕は彼ら彼女らに新しい意味を授けるのだろう。