マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

人食いの大鷲トリコの触りで感じたこと

 トリコを2時間弱やってみた感想。

 トリコがめちゃくちゃ可愛い。トリコは画面上にしかいないし、3Dモデルで出来ている偽物の生き物ということは脳みそでは分かっているつもりなのだけれども、しかしトリコがまさしく動物の動きをしているから生きているものを見ている感覚に陥ってしまう。動物へ向かう愛情が確実に自分の中に芽生えているのが分かる。僕が飼っているハリネズミのチャツネへ向けているあの他人には見せたくない顔を、トリコに向けてしているだろうことを薄々勘付いている。

 チャツネもそうだし、言ってしまえば人間もそうなんだけども、動物とコミュニケーションを取れたとしても思い通りにいくことが本当に難しい。人間とは言葉を介してアレをしてくれ、コレをしないでくれとお願いできる。相手側にそのお願いに対するメリットがあれば受け入れてくれるだろうが、デメリットがあるときには拒否されることがほとんどだ。トリコもそうなのである。コミュニケーションをとることが動物と、チャツネと相対しているときの感覚に似ている。

 ただ一つ違うであろうことが、おそらく”トリコは全てを知っている”ということだ。それは創られたモノのサガであり、自分が今手を掛けている物語に終わりがあるということの証だ。人食いの大鷲トリコは上田文人さんが作る今までのゲームよろしく、一日にずっとやり続けたり、のめり込んでやるようなゲームではなく、一日に数時間、愛情をかけてやるようなゲームかなと思っている。面白い感覚が fun ではなく interesting に近い。もっと言うならばペットと戯れる感覚だ。ニンテンドッグスよりも本格的なペットとの生活が体験できるのではなかろうか。クリアにはまだまだ時間が掛かるだろうけれど、じっくりやっていきたい素敵なゲームだ。

 

UECを卒業して6年経って感じる寂しさ

 この記事はUEC Advent Calendar 2016の7日目の記事です。前日はrbsd66さんの「プレゼントを選ぶのって中々しんどくない?」でした。プレゼントは大抵自分が欲しいものをあげてます。手紙を添えれば安心安全。

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 こんにちは。UEC卒業6年目、11卒のふじいです。UEC Advent Calendar には何かを書こうと思って毎年結局書いてなかったので、今年こそはと思って今打鍵しています。

 僕は現在Web制作の会社でフロントエンドエンジニアとして働いています。

 卒業して6年ほど経ちつつあり、僕は現在調布にも住んでないし、1年に1度大学に行くか行かないか程度しかキャンパスに帰ってないので最近のことは全く知りません。教科書や過去レポもほとんど捨てたし、昔のこともあんまり思い出せません。当時やってたmixiの垢は先日爆破したので日記も残ってません。つまり現在も過去もUECについて書けません。なので今の仕事でUEC卒的に思うことを少し書きます。

 寂しいです。後輩が少なくて…。

 Web制作・サービス・アプリ業界にUEC卒が少なすぎる。出会ってないだけかもしれませんが、寂しい。後輩と話す機会がなくて過去の大学生活を忘れかけているのではないか…。いやもう6年経てば新入生が大学院を卒業する時間だししょうがないか…。

 なんでこんなに居ないのでしょうか。いやこっちの業界に来ないのは分かっているんですけどね。単体の理系大学とは言えど、院生も入れると毎年約千人近くの人が卒業しているにも関わらずWeb業界ではあんまり見かけません。僕の周りも大抵みかか周辺やSierが多く、きっとみんなメーカだと日立とか、部品メーカだと村田製作所とか、コンサルだと野村総研とか行っちゃうんでしょう。皆賢いですから。仕方ありません。お給料もいいし、世間体もいいし。どこ?そこの会社、大丈夫?何してるの?とか聞かれないだろうし。

 以前後輩にヒアリングしたときは「受託が嫌だ」という声も聞きましたが、受託も結構面白いですよ。下請けの下請けみたいなところはちょっと大変だと思いますが…。ちなみに僕も新卒で入った会社は、現在は上場してますが当時10人程度のベンチャー企業で自社サービスと受託の半々やってました。今になって受託での経験が大いに役立ってると思い…ま…す。多分。特に自分にとって大事なものが、相手にとって大事でないこととかよく分かります。

 あ、そうそうUECの授業で実践的なプログラミングは学べないのは仕方ないです。少なくとも僕は学んだ記憶がありません。今はもうプログラミング演習が Pascal じゃない話は聞きました。なんであんなものを教育用言語と言っているんでしょうか…。

 ウチは国立大学だから基礎研究がメインなので、そういう面があるのは割り切るしかない。僕が今の業界へ行けたものも独学で勉強した部分が大きく占めています。しかも卒業後に。卒業研究は先輩に手取り足取り手伝ってもらってなかったら多分卒業できてない…。その節はありがとうございました。…なので、元も子もないけど自分でやるしかない!自分ができない子ならばできる友人を見つけてプログラムが書けるようになろう!

 そしてWeb業界に少しでも足を突っ込んでほしい。同じ会社じゃなくても同じ業界に後輩がほしい!Web系UECで忘年会したい!UECっ子で将来が不安だとOBに会いたいとかで相談したい人がおったらばTwitterとかで連絡してくれたら手伝える範囲で相談乗ります。多分。きっと。なんとかします。

 

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 明日はhiromikai_green さんの「K課程のラボ生活について書く」です。僕のいたときにはK課程なんて名前のものはなかったので気になりますね。

平凡な物語

 普通、物語の主人公は周囲が慣習として受け入れているものに対しての異変に気付くタイプが多い。年に一度は森の主に村の生贄を出さないといけない風習に異を唱える主人公。異種族を好きになってしまい種族の対立に巻き込まれて好きな人を好きと言ってはいけないことに嘆く主人公。戦争はいけないと声高に叫ぶ主人公。こういうのがよく主人公として扱われるタイプではないだろうか。なぜこういうタイプなのか、それは普通に対する異常でなければ物語が起きないからだ。静に対する動。日常に対する非日常。物語は平々凡々では物語たり得ない。しかし「この世界の片隅に」の主人公であるすずは、決してこのタイプではない。知らない人との結婚を受け入れ、戦争を受け入れ、右手を失ったことを受け入れる。これは仕方のないことだとも考えていないかもしれない。村の掟は守るべきものであるのならば、それが当然だと思っているタイプの、生贄に選ばれる側の人間だ。すずは決して特別な人間として描かれてはいない、むしろ平々凡々と生きている我々と同じ、あの時代に生きていたはずの彼らと同じだ。だからこそ、リアルに写っていく。

この世界の片隅に を観た。

 この世界の片隅にはせっかくだからテアトル新宿で観ようと思ったんだけど、池袋HUMAXで観た。字幕付でした。

 僕は広島市出身で。冒頭の川筋と産業奨励館(現在の原爆ドーム)、おそらく福屋のよく見たことのある建物、ちょっと過剰なまでの広島弁を見て聞いてつねに胸が熱かった。呉にも訪れたことがあったので今とは全く違う町並みですが灰ヶ峰から見える風景を見て、あの景色は今も変わらずあそこにあるんよねと自分の中の記憶と照らし合わせていた。

 テンポよく進むコメディとすずの可愛らしさが相まって、劇場では度々笑い声が起こっていて、僕もすずの目が「ヲ」みたいな形になる度に笑いと萌えのような感情が湧き上がった。可愛いな可愛いなと。そして仕草だけでなく、のんさんの演技力と声に魅力を感じた。また何かの役で声を当ててほしい。あまり演技について見識はないけど彼女は天才だと思う。のんの顔ではなくすずがそこにいるように僕には感じた。

 のんは何かの闘争に巻き込まれた渦中にいる。本人が悪いのか悪い大人がいたのかは知らないが、メディアから干されただの何らかの力が働く場にいる。それがある意味すずと重なって強く抑えなければいけない苦しさが強調されているように感じた。彼女にとって女優として生きることは戦争下で生きることと変わらないのではないだろうか。

 コトリンゴのOPもEDも良かった。OPは多分これから聞く度に涙が浮かんでくるだろう。ああいう曲に僕はめっきり弱くなってしまったようだ。フォーク・クルセダーズのカバーと知らなかったけど、原曲も両方良い。

 

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 原作は未読なんだけど、多分普通の人たちは情報量が多いことに追加して方言で何を言っているかニュアンスでしか分からずに大変だったでしょう。僕も字幕が無ければ「新な傘」などの言葉に対してははてなマークが出ていたと思う。しかし、分からない言葉が出てくる間はだいたい日常なんですよね。ディテールに凝れるうちは辛くても幸せなんだと。

 原作を買ってちゃんと読んでから、もう一度映画を観に行くなりブルーレイを買って見るなりしようと思う。火垂るの墓が何度も夏にやるように、毎年感じることを確認してもいいかもしれない。観た後は充電する期間が必要だけど。

 

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 広島県人は小さい頃から戦争経験者を呼んで平和学習をしたり平和資料館に行ったりと戦争についての学習をしている。おそらく他県よりもずっと平和について考えるきっかけがあったはずだ。”はだしのゲン”や”ちいちゃんの影送り”などの親しみやすいもので「戦争は良くないものだ、だからしてはいけない」というある種の刷り込みや洗脳をしている。これだとなんとなく言い方は良くないけど、戦争は一意に悪い行為だからまぁ仕方ない。

 ”この世界の片隅に”は、これまでに見てきた色々な平和学習用の映像とは違っていたと思う。大体が原爆を落とされた広島の以前以後を切り取った描写が多く、なかなかに政治的なものが多かった。この作品は政治的なものを排除した、一人の女性の暮らしを描いたものだ。いや、すずだけじゃなく、銃後の女性かもしれない。理不尽なことも多く、男尊女卑や嫁いびりなどの描写もその時代の当たり前として描かれているが、それが当たり前だったから仕方がないとしてすずが日々を楽しく生きるかということにフォーカスを当てていた。呉が空襲を受けるまでは、もっと言うと、戦争が終わるまでは。多分平和学習では子供にとっては分かりづらいので使われないだろう。

 ただ大人が見る分には、影響を与えそうな映画だなと感じる。現代でも日本の在留米軍が撤退するとかしないとか、中国が領海侵犯してるとか、第三次世界大戦が起こるとか、日本は戦争に参加するのか云々とか言われているところがあるけれど、そんなのは只の情報であってそれを背負ってマクロな視点でぼくらは生きていない。実際に身に降りかかることは少なく、他人事だと思って生きている。戦争に行くのだって自衛隊が派遣される程度にしか考えてないだろう。

 みんながみんなすずと同じ立場。銃後の人々で居続けるつもりだろう。戦争が起きたら個人はなくなり、全体として生きるざるを得ないだろう。感情は抑圧され、やりたくないことをやらされる。そして自分も誰かを抑圧する。映画では戦争終了後に戦争が終わったことに対し、周りは「おわったおわった」みたいに軽くあしらっていたけれど、すずだけが「まだ5人おるじゃろうが!なんで簡単に終われるんじゃ!」と激昂していた。すずにだって絵を描いたり水原とデートしたりお兄ちゃんと仲良くしたり海苔漉きだったりやりたいことが本当は死ぬほどあっただろう、でも”そういう時代”に生きている。知らないところに嫁に出されいびられハゲになって好きな絵も描けなくなって、でもそれは誰に対する責任でもなくて怒りや苦しみを訴えるやり場がなくても”そういう時代”だったただそれだけだった。

 でもそんな時代に生きたいですか、とは安直に問わないのが観てる自分には救いだった。誰だって、戦争を経験してない僕らだって戦争が良くないことだなんて当たり前に分かってる。あからさまな反戦映画として描かれてなくたって、戦争と戦う、戦争に抗う術がちゃんとある。大人になったら当事者だ。

 

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 ここ2年ほど生きることが日々つらくて、どうしようもないモヤモヤを抱えたまま生活をしていた。この映画で元気をもらうことはおかしなことかもしれないけど、生きなくてはいけない気力はもらった気がした。

鍵と錠前

 暇なときは毎度キーボードに向かって何かグチャグチャしたものを誰かにぶつけたい。スペインのトマト祭りは赤々としたトマトを投げまくった結果グチャグチャになるけれど、僕が日々している行為はハナからグチャグチャなものを投げつけて僕もこれを読んでるアナタも互いに泥まみれにグチャグチャになろうやという気持ちで書いている。

 

 アプリで解錠するタイプの鍵と錠前がある。登録されたユーザーだけが使えるアプリで、自分のスマホBluetoothで接続され解錠ボタンを押すと連動して鍵が開いたり閉まったりするシンプルなものだ。実際に使ってみると、特に大きな感動がない。多分それは自分が設置したものでもないし、そもそもそうなるように設定されたものだからないだろうか。松屋の券売機はもはや当たり前のものになっていて、使っていても特に感動は生まれない。世の中のシステムは大体ブラックボックスになっているけれど、出力Aから飛び出てくるBがなんであれ、中身を知らないものに感動は生まれない。

 感動は知っていることや共感できることからしか生まれない。ドラマの主人公に何故涙するのか、それは過去の自分と照らし合わせたり、不都合なことが起こったときの悲しさを知っていたり、大事な人が死んだときの悲しさを分かっているからであって、誰しもが涙を流すわけじゃないし、決してそう作られたからではない。

 僕はWebサイトの作り方を知っているから、凄いテクノロジーやデザインが施されているサイトに対して驚きや感心がある。ワインの作り方や売られ方を知っていたら、もっとお店で買ったり飲んだりするワインに対して驚きが生まれるだろう。今の自分が辛く落ち込んでいるのは、何かを知っているけれど何も知らないことに気付いたからなのだろうか。

 本当はもっと驚きが世の中に満ち溢れているはずなのに、自分の無知のせいでそのことに気付けない。気付けないから人生がつまらなく感じる。こういうループに陥っているのかもしれない。何か全く知らない今の自分と違うことを知ることが、今を良くする一歩に繋がるかもしれない。錠前はそこら中にある。しかし、自分が鍵を持っていないことにはその錠前を開けることはできない。