マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

 今、暇している。お前またかまたなのかとこの日記をずっと観察している人は思うだろうが、またなのである。こうやって定期的に暇になることで自分の今後の未来の枝葉を生やしていくんだろう。うーむ、やりたいことを探している。ここ数日考えて分かったこと、それはやりたいことはどこかから降って湧いてくるわけでもなく、草をかき分け海を渡り大地を駆けてやっと見つけるものということ。PCを目の前にデスクに座ってるだけでルーティンをしているだけでは何も見つからないのである。

 また別の選択肢としては転職がある。やはり今の仕事に関連するやりたいことがないなら転職するしかないけど、転職も億劫というか本当にやりたいことがないので転職もできない。転職する理由を自分に課すことも、相手に何故転職したいのかを伝える方法もない。云わば ”詰み” の状態だ。将棋は詰みになったらもう終わりだけど、将棋の対局が終わるように人生が終わるわけじゃないので、詰みから抜け出さないといけない。

 日記がこれだけ更新できるのもそういうこと。

やりたくないお気持ちの表明

 

 やりたくないことがたくさんある。皆さんもやりたくないことをいくつか持っていると思う。大体世の中にはやりたくないことが溢れかえっていて、嫌だなー怖いなーって稲川淳二ばりに拒否しつつもその先の真っ暗闇のトンネルに入っていった百物語の一説を聞いてロウソクを一つずつ消していく、んじゃなくてやりたくないことをやっている。

 やっぱり僕にもいくつかやらなくちゃいけないけどやりたくないことを日常に抱えていて、通勤、洗濯、掃除、皿洗い、ペットの世話などなど挙げればキリがない。仕事なんかもその一つである。僕は僕の周りの人々と違って仕事をやらなくていいならすぐに辞めて半分ニートみたいな生活を送るだろゆと確信している。もしもベーシックインカムで定期的に国からお小遣いがもらえるのであれば、毎日友人と代々木公園に集まってフリスビーの練習をしたり、缶ビールを片手にキャッチボールをして過ごすんじゃなかろうか。一緒にフリスビーしてくれる相棒を募集します。

 そういえば前にどうしてもやりたくなかったことがあった。それは仕事についてで、僕が仕事について「ああできることなら本当にやりたくない!」と思うことは稀だったので自分でも振り返って驚いている。コンペに勝ったらモノを作るという話で、そのコンペの提案が問題だった。元々骨子は僕が作成して上司に提案したものだったが、いつの間にか僕が提案したものとはかけ離れたモノができあがっていたのである。内容自体は悪いものではなかったが、個人的には面白みに欠けるものだと思っている。その”やりたくな”さをその経緯は省いて、社内の数人に愚痴った。

 結果的にコンペは負けてしまったので作ることはなかったが、その最後の愚痴が良くなかったなと今でも思っている。というのも愚痴の中身が「やりたくないんだ!」というものだったからである。嫌とかやりたくないをそのまま口に出してはいけないということを反省している。大体そういう気持ちを表に出しても賛成されることはほとんどない。沢尻エリカが昔原始人みたいな恰好をして「別に…」と言ったこともあったが、やはり他人は僕がどういう意図で何故怒りに震えながらこの嫌悪感を口にしているのかを汲み取ることが正確にはできない。嫌悪感を口にしている際は見た目も醜悪なのだ。どう受け取られても良いようには映らない。鏡にでも愚痴って後悔した方がマシだ。

 天皇陛下の生前退位のお気持ち表明があったが、あれこそやりたくない表明を上手く昇華したものだと思う。あれほど丁寧なやりたくない表明は今までに見たことがない。ただ、御用学者様がたや実際に動いている法律などが絡みつく鉄線のように貼られているからあのプレゼンテーションでも許されないというのは非常に悲しいことではある。自分がやりたくないと思っていることがアリんこのような小ささを持って情けなく感じる。

 もしもやりたくないことがあるならば、直接”やりたくない”を表明するのではなく、別のやりたいを表明するべきだった。他にやりたいことがあるから”やりたくない”ではなく”やれない”のだ。そうすれば嫌悪感なく相手に伝えられる。日々生きる中で仕事でやりたいことを積み重ねていかねば、その逃げ道は使えない。自分にやりたいことが無ければ”やりたくない”をやるしかない。ただ、それが本当にやりたいことでない限り、他のルートを通っても最終的に後悔をしてしまうかもしれない。俺は楽をしたい。だからやりたいことを探し続けて仕事にしてお金をもらうべきなんだ。

貧乏人、PS4を買う。

 先日、Playstation4 Pro を買った。洗練されたフォルムで殺風景な部屋が華やいだ、気がする。

 そう、自分で据え置きゲームのハードを買ったのは、おそらくPS2以来、約16年振りだ。中学1年生の誕生日のお祝いの後、バスセンターの前の家電量販店の地下ゲーム売り場で買ってもらった。買うのを父親に大反対されていた僕は彼をなんとか説得しようと、ゲームは時間を決めてやるし(大嘘)、当時家にDVD再生機器がなくビデオデッキしかなかったので皆でDVD見れるようになるじゃんと熱弁を振るったことを覚えている。そして一緒にFF10をこっそり買って怒られたことも覚えている。親はスーパーファミコンの麻雀しかゲームをしているのを見たことがない。

 大学生の時はその分厚いPS2を東京まで担いで持ってきていた。結局10年選手になるわけだが、それまで新しいゲームといえばPS3Xbox360Wiiも買わず、友人の家で入り浸ってゲームをさせてもらっていた。今考えると他人の金でゲームをしまくるという極悪非道をしていたと反省している。たまに折半して買ったりしてただろう、許してくれ。あのとき一緒にゲームをした体験だけは今でも飲みながら話すくらい大切な思い出だ。本当にお金で買えないことをゲームは僕らに提供してくれている。サンキュークリエイター。

 何故新しいハードを買おうと思ったかというと、仕事でVRを体験しにいくことが何度かあって、仕事の延長として家庭で体験できるならばそれは買った方がいいと思い、購入を決定した。半分仕事、半分趣味だ。嘘だ。8割くらい趣味だ。まぁ、ついでにブルーレイ再生機器として活躍してくれるのであれば、すぐにコストは回収できるだろうとの考えに至った。が、PSVRと合わせると10万超の出費となってしまったし、同じくらいの値段の冬用コートも買っちゃったし、家に引きこもって数ヶ月遊びを控えることにしようと思う。

 さっそくペルソナ5をDL購入して(ネットワークに接続できるハードも割と衝撃を受けた)、この日曜日を潰してしまった。日曜日は13時間ほど熱中していた。それでもゲーム内時間では8分の1程度しか進んでないと思う。前作のペルソナ4も80時間位しないとクリアできなかった覚えがあるし、本当に恐ろしいゲームだ。一人暮らしを初めてから、新作ゲームを買ったら家から出ずに引きこもってぶっ続けでゲームしてしまうので、1時間ゲームをしたら5分筋トレとかの課題を自分に振らないといずれヨボヨボのおじいさんになってしまいそうだ。仕事をしつつずっとゲームのことを考えてしまうようなことにならないように、せめて思考においてはメリハリを付けてゲームライフを送っていきたい。

瞬きを待つ間のまばたき

一人暮らしを始めてから、何かに隠れて何かをするということがなくなった。例えば体育館の倉庫の隙間だったり、屋上に続く踊り場だったり、周りからは見えにくい川沿いのいつものベンチだったり、いつもの駅から五つほど離れた知らない隣町だったり。親の監視から逃れるために友だちと映画に行くなんて嘘をついて、そこにはスリルがあって、いつもの誰かから見られる恥ずかしさなんてない。二人だけの楽園だった。いつも制服を着ていた僕らは日常の手から逃れるための手段をどうにかして生み出そうとした。大人になると、隠れて何かをするのは法だけ。スリルが足りなくなったら犯罪を犯すしか、ない。

 

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窓から見えるビルの工事現場の隙間から、星のように瞬いているひかりが見える。パパパパッと白い、真っ白なひかりと赤くサッと広がる火花のひかり。溶接のひかりだと分かっていても綺麗だから次はいつ瞬くのかと思ってビルの方に目が向いてしまう。流れ星を待っている子どもみたいに、願うことは決めてないが、この仕事が終わればいいなと心の奥底で弱く瞬いている。