マレーグマの頭のなか

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やりたくないお気持ちの表明

 

 やりたくないことがたくさんある。皆さんもやりたくないことをいくつか持っていると思う。大体世の中にはやりたくないことが溢れかえっていて、嫌だなー怖いなーって稲川淳二ばりに拒否しつつもその先の真っ暗闇のトンネルに入っていった百物語の一説を聞いてロウソクを一つずつ消していく、んじゃなくてやりたくないことをやっている。

 やっぱり僕にもいくつかやらなくちゃいけないけどやりたくないことを日常に抱えていて、通勤、洗濯、掃除、皿洗い、ペットの世話などなど挙げればキリがない。仕事なんかもその一つである。僕は僕の周りの人々と違って仕事をやらなくていいならすぐに辞めて半分ニートみたいな生活を送るだろゆと確信している。もしもベーシックインカムで定期的に国からお小遣いがもらえるのであれば、毎日友人と代々木公園に集まってフリスビーの練習をしたり、缶ビールを片手にキャッチボールをして過ごすんじゃなかろうか。一緒にフリスビーしてくれる相棒を募集します。

 そういえば前にどうしてもやりたくなかったことがあった。それは仕事についてで、僕が仕事について「ああできることなら本当にやりたくない!」と思うことは稀だったので自分でも振り返って驚いている。コンペに勝ったらモノを作るという話で、そのコンペの提案が問題だった。元々骨子は僕が作成して上司に提案したものだったが、いつの間にか僕が提案したものとはかけ離れたモノができあがっていたのである。内容自体は悪いものではなかったが、個人的には面白みに欠けるものだと思っている。その”やりたくな”さをその経緯は省いて、社内の数人に愚痴った。

 結果的にコンペは負けてしまったので作ることはなかったが、その最後の愚痴が良くなかったなと今でも思っている。というのも愚痴の中身が「やりたくないんだ!」というものだったからである。嫌とかやりたくないをそのまま口に出してはいけないということを反省している。大体そういう気持ちを表に出しても賛成されることはほとんどない。沢尻エリカが昔原始人みたいな恰好をして「別に…」と言ったこともあったが、やはり他人は僕がどういう意図で何故怒りに震えながらこの嫌悪感を口にしているのかを汲み取ることが正確にはできない。嫌悪感を口にしている際は見た目も醜悪なのだ。どう受け取られても良いようには映らない。鏡にでも愚痴って後悔した方がマシだ。

 天皇陛下の生前退位のお気持ち表明があったが、あれこそやりたくない表明を上手く昇華したものだと思う。あれほど丁寧なやりたくない表明は今までに見たことがない。ただ、御用学者様がたや実際に動いている法律などが絡みつく鉄線のように貼られているからあのプレゼンテーションでも許されないというのは非常に悲しいことではある。自分がやりたくないと思っていることがアリんこのような小ささを持って情けなく感じる。

 もしもやりたくないことがあるならば、直接”やりたくない”を表明するのではなく、別のやりたいを表明するべきだった。他にやりたいことがあるから”やりたくない”ではなく”やれない”のだ。そうすれば嫌悪感なく相手に伝えられる。日々生きる中で仕事でやりたいことを積み重ねていかねば、その逃げ道は使えない。自分にやりたいことが無ければ”やりたくない”をやるしかない。ただ、それが本当にやりたいことでない限り、他のルートを通っても最終的に後悔をしてしまうかもしれない。俺は楽をしたい。だからやりたいことを探し続けて仕事にしてお金をもらうべきなんだ。