マレーグマの頭のなか

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暇と退屈の倫理学 第一章で出てくる哲学者の主張

自分用のメモ

 

◆ 哲学者 バートランド・ラッセル:幸福論

ヨーロッパではたくさんのことが成し遂げられた、その中で生きる若者はあまりやることがなく、不幸である。しかし、ロシアや東洋諸国ではまだまだ成し遂げられることがたくさんあるので、若者は

幸せである。

近代社会が実現した生活には何かぼんやりとした不幸の空気が漂っている。現代人の不幸、すなわち「食と住を確保できるだけの収入」と「日常の身体活動ができるほどの健康」を持ち合わせている人たちを襲っている日常的な不幸である。

 

◆ 経済学者 ジョン・ガルブレイス:ゆたかな社会

現代人は自分が何をしたいのか意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられてはじめて自分の欲望がはっきりするのだ。そして、供給が需要をコントロールしている。生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようにしている。

 

◆ 哲学者 イマヌエル・カント

人間は世界そのままを受け取っているのではなくて、予めもっていた何らかの型(概念)にあてはめてそれを理解している。

 

◆ 哲学者 マックス・ホルクハイマー/テオドール・アドルノ啓蒙の弁証法

文化産業が支配的な現代においては、消費者の感性そのものがあらかじめ製作プロダクションのうちに先取りされている。つまり、産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、あらかじめ受け取られ方の決められたものを主体に差し出している。

 

社会主義者 ウィリアム・モリス

明日革命が起こってしまうかもしれない。そして、革命が起こってしまったらその後どうしようと考えている。これまで人類は痛ましい労働に耐えてきた。ならばそれが変わろうとするとき、日々の労働以外の何に向かうのか?革命が到来すれば、私たちは自由と暇を得る。そのときに大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ。(アーツ・アンド・クラフツ運動)

 

◆ 哲学者 アレンカ・ジュパンチッチ

「生命ほど尊いものはない」それでは人は奮い立たせない。そのため、国家や民族といった「伝統的」な価値への回帰が魅力を持つようになった。自分を突き動かしてくれる力を欲するが、世間を動かしている原理にそんな力はない。だから、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たちを恐ろしくも羨ましいと感じる。

 

◆ 思想家 ブレーズ・パスカル:気晴らしの分析

人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

ウサギ狩りをする人は、ウサギが欲しいのではない。獲物が欲しいのではない、退屈から逃れたいから、気晴らしがしたいから、ひいては、みじめな人間の運命から目をそらしたいから狩りに行く。

 

◆ 哲学者 ラース・スヴェンセン:退屈の小さな哲学

退屈が人々の悩み事となったのはロマン主義のせいである。ロマン主義は一般に「人生の充実」をもとめる。しかし、それが何を指しているのかはだれにも分からない。だから退屈してしまう。生の意味が共同体的なものから、個人的なものになった。ロマン主義を捨て去ること、それが退屈から逃れる方法である。

 

◆ フリードリッヒ・ニーチェ:悦ばしき知識

『いま、幾百万の若いヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている。彼らを見ていると自分はこう考えざるを得ない。彼らは「何としてでも何かに苦しみたいという欲望」を持っている、と。なぜなら彼らはそうした苦しみのなかから、自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き出したいからだ……。』

 

◆ 哲学者 レオ・シュトラウス

当時、ファシズムが流行っていた。若者たちは上の世代が作り上げた第一次世界大戦後の価値観に疑問を持っていた。若者たちにとって、共産主義などの世界は魅力に映らなかった。それらを恐れ、憎んだ。そのなかで若者たちは緊張の中にある生だけが本来の生であると考えるようになった。

 

◆ 哲学者 マルティン・ハイデッガー

あとで詳しく説明するらしい。