マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

史上最弱

今日はインフルエンザに罹患したので残念ながら会社はお休みしました。午前中は「この程度余裕だぜ!史上最弱のインフルエンザだな!」とか余裕ぶっこいてたんですが、午後になって「はぁ、しんど。仕事なんかしてられんわ。寝よ」と手のひらを返しました。これまでインフルエンザには何度かかかっているけど、ここまで症状が軽いのは初めてで、舐めてたというかいやほんと舐めてました。たった37度ちょっとなのに辛いです。東京ではインフルエンザ警報が出てるらしいので、みなさんもご注意ください。今は午後11時前なんですが、今はすごく楽で「史上最弱のインフルエンザだな!」という気持ちなんですが、多分起きたらまた手のひら返しをすると思います。早く寝ます。おやすみなさい。

抱負

 そういえば、1年がそろそろ8%を過ぎ去ろうとしている最中、抱負を決めた。それは、

「なるべく、論文を当たること」

である。抱負は「抱き、負う」という前でも後ろでも重みを感じるといったところだろうか、双子の赤ちゃんのお守りをしているようだ。常に気を配っていないと、どちらもあやすことはできない。さっさと成長して巣立ってくれたらいいのだが。きっとそれは自分の決意が習慣に変わったときだろう。

 この抱負にした理由は、1月の半ばに「広告都市・東京」という本を読んだことに影響している。広告論からメディア論、ひいてはコミュニケーションについて述べている本だ。2002年の著作のはずだが、コミュニケーション論の章で明らかに現在のSNSの形を述べていた。手元に無いのですぐに引用はできないが「やり取りをすることではなく、単純に投げることに意味を持つようになる」ようなことを書いていた。

 当時にもFriendsterとかOrkut等が勃興しはじめていたが、現在のTwitterのようなコミュニケーションの形ではなかったように思う。むしろ、2ちゃんねるが今のTwitterの形に近かった。この15年以上前の著作で、ここまで詳細にコミュニケーションの形に変遷が起こることを述べられていたことに衝撃を受けた。アメリカの論文を読んだりすると、もっと早くから同じことは書かれていたかもしれない。

 しかし、2年前に同じように、各大学で行われていることは世のビジネスレイヤーに出回っているものより数歩先に進んでいると感じていたことを思い出す。当時のニューラル・ネットワークの話を教授から聞いたときに、海外の大学では畳み込みの数がビジネスでやっているものの10倍ほど違うなどと聞いていた。つまり時間は掛かるが精度が全然違うということらしいが。ふと冷静になると自分は理系の単科大学を出ているのだが、そんなことも忘れていたのかと。

 新書やビジネス書のような現在の問題を攻略するための本も大事ではある。しかし、やはり文系理系関係なく、論文のような数歩先のものを摂取しないと場当たり的に対処する方法しか使えなくなることと同時に、数歩先の情報は自分の中で加工しないとうまく使えないので頭を使う必要が出てくる。多分そこが最も大事だと踏んでいる。そこの力を鍛えるためにも、論文に近い著書を今年は摂取しようともがいている。この一年でどう変われるのか、自分でも期待している。三日坊主、三ヶ月坊主、ただの坊主にならなければよいものだが…。

無題

 

あー、ええと。短めの日記をば。毎日書くように努めているのだけれど、なかなか1,000文字書くのですら億劫になってしまいがちでして。それなら140文字を超えればそれはブログに投稿してよし、というルールの下、こんな風に口語体にしてます。油絵の具にメディウムを塗り込んでかさ増しするかの如く、ブログ書いてます。

 

多摩美術大学の統合デザイン学科の卒業制作展に行ってきた。個人的には教授陣が豪華で誕生当初からどういうアウトプットをしてくるのか、気にはなっていた。かつ学科第一期生の卒展ということで珠玉の作品が出てくるのか、はたまた普通の美大生の作品と変わらないものが出てくるのか期待をして行ってみた。

 

自分はデザイナーでもないし、一観客という安全でズルくて責任感の無い立場から投げかけてしまうので、申し訳ない。なので、なんとなく思ったことを箇条書きにしようと思う。タイトルを無題にしたのも、現場の人に気付かれないで欲しいというずる賢い逃げからである。

 

・どこの美大もだいたい同じ匂いがする。雰囲気という意味ではなく、物理的な匂いがだいたい同じ。

・自分でお金を使っていない、お金を受け取っていない、また社会に出ていないデザインというのは説得力が弱い。リアリティを出すためのお金の使い方は、きっとある。が、それを学生に求めるのも酷な気がしても、いる。

Twitterや各種SNSで自分の卒制を掲載した人の作品は、正直インパクトが薄い。特に映像関係。Twitter上では面白いなと思ったけど、現場で行ってもほぼ同質のものだけが伝わるため、もったいない。それ以上のものを与えられたのはやはり物体。同じ次元内の情報を与えるのならば、じゃあコレがどうなるでしょうという問いかけにしないとめちゃくちゃもったいない。もしくは、現場で行くと実はクソデカいとか。つまり次元を越えた驚きなのだが。

・映像において、やはり音が大事。音に気を配るだけで良くなる作品がほとんどだろうと再確認した。一日中そこにいて連続で聞いて狂わないとか問題はあるけど。

・地図がデカすぎる上に、受付が記されてなくて見づらかった。学校を知らない人が来るのだから、そこは初めにデザインしてほしかった。

・3号館でやっていた3人の学生たちはかなりレベルが高いことをやっているな、3人であの広い空間を余すところなく使っていて、観客のことを考えた作りになっていて、卒業してからが非常に楽しみだ。

上野毛二子玉川の隣だから、オシャレな場所だと思っていたけど、都心の郊外という感覚を得た。

・家に帰ってから反芻した結果、駅から大学への道のりで、中に何もない部屋のガラスでできた引き戸に「←注」ってマスキングテープで作ってあったもの、あれが一番引っかかったメディアアートだったのは自分でも驚いた。初めての地というバイアスが掛かりすぎたかもしれない。

 

結局、統合デザインとはなんだったのか、逆に分からなくなってきた感じではある。これまでの様々な情報を元に「統合デザインって、こういうことやってるんだろうな」という妄想をしていたのだけれど、卒制を見た結果、また頭の中で拗れてしまった。誰かしらアウトサイダーが発生してしまう美大四年間で、そこを規定する必要はないが。

卒業制作が「良い/悪い」「好き/嫌い」「クオリティが高い/低い」みたいな部分は、結局のところ個々人に依存しているので、この学科だったからどうだったみたいなことは決してないのでしょう。ただ、来年にも期待できる学科かもなーというものは見せてもらったと思うので、来年も行けたら行きたい。

意外とたくさん書いたな。

暇と退屈の倫理学 第一章で出てくる哲学者の主張

自分用のメモ

 

◆ 哲学者 バートランド・ラッセル:幸福論

ヨーロッパではたくさんのことが成し遂げられた、その中で生きる若者はあまりやることがなく、不幸である。しかし、ロシアや東洋諸国ではまだまだ成し遂げられることがたくさんあるので、若者は幸せである。

近代社会が実現した生活には何かぼんやりとした不幸の空気が漂っている。現代人の不幸、すなわち「食と住を確保できるだけの収入」と「日常の身体活動ができるほどの健康」を持ち合わせている人たちを襲っている日常的な不幸である。

 

◆ 経済学者 ジョン・ガルブレイス:ゆたかな社会

現代人は自分が何をしたいのか意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられてはじめて自分の欲望がはっきりするのだ。そして、供給が需要をコントロールしている。生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようにしている。

 

◆ 哲学者 イマヌエル・カント

人間は世界そのままを受け取っているのではなくて、予めもっていた何らかの型(概念)にあてはめてそれを理解している。

 

◆ 哲学者 マックス・ホルクハイマー/テオドール・アドルノ啓蒙の弁証法

文化産業が支配的な現代においては、消費者の感性そのものがあらかじめ製作プロダクションのうちに先取りされている。つまり、産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、あらかじめ受け取られ方の決められたものを主体に差し出している。

 

社会主義者 ウィリアム・モリス

明日革命が起こってしまうかもしれない。そして、革命が起こってしまったらその後どうしようと考えている。これまで人類は痛ましい労働に耐えてきた。ならばそれが変わろうとするとき、日々の労働以外の何に向かうのか?革命が到来すれば、私たちは自由と暇を得る。そのときに大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ。(アーツ・アンド・クラフツ運動)

 

◆ 哲学者 アレンカ・ジュパンチッチ

「生命ほど尊いものはない」それでは人は奮い立たせない。そのため、国家や民族といった「伝統的」な価値への回帰が魅力を持つようになった。自分を突き動かしてくれる力を欲するが、世間を動かしている原理にそんな力はない。だから、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たちを恐ろしくも羨ましいと感じる。

 

◆ 思想家 ブレーズ・パスカル:気晴らしの分析

人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

ウサギ狩りをする人は、ウサギが欲しいのではない。獲物が欲しいのではない、退屈から逃れたいから、気晴らしがしたいから、ひいては、みじめな人間の運命から目をそらしたいから狩りに行く。

 

◆ 哲学者 ラース・スヴェンセン:退屈の小さな哲学

退屈が人々の悩み事となったのはロマン主義のせいである。ロマン主義は一般に「人生の充実」をもとめる。しかし、それが何を指しているのかはだれにも分からない。だから退屈してしまう。生の意味が共同体的なものから、個人的なものになった。ロマン主義を捨て去ること、それが退屈から逃れる方法である。

 

◆ フリードリッヒ・ニーチェ:悦ばしき知識

『いま、幾百万の若いヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている。彼らを見ていると自分はこう考えざるを得ない。彼らは「何としてでも何かに苦しみたいという欲望」を持っている、と。なぜなら彼らはそうした苦しみのなかから、自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き出したいからだ……。』

 

◆ 哲学者 レオ・シュトラウス

当時、ファシズムが流行っていた。若者たちは上の世代が作り上げた第一次世界大戦後の価値観に疑問を持っていた。若者たちにとって、共産主義などの世界は魅力に映らなかった。それらを恐れ、憎んだ。そのなかで若者たちは緊張の中にある生だけが本来の生であると考えるようになった。

 

◆ 哲学者 マルティン・ハイデッガー

あとで詳しく説明するらしい。

自分を知ることは、未来の誰かを傷つけないこと

 ここ半年は毎月とある飲み会を開いてもらっている。その飲み会には20代後半くらいのこれから伸びてくるだろう男性のクリエイターの人たちが集っていて、その場に毎度呼んでもらっている。ありがたいことだ。ちなみに女性のクリエイターはまた別に集まっている。秘密結社みたいだ。

 では何故三流以下映る価値なしの僕が肩を叩かれているのかといえば、それはひとえに主催者に気に入られたからに他ならない。もっと言えば、僕の名前が「ふじいたかし」でなかったら二酸化炭素のように扱われていただろう。親の先見の明には、大人になってからは特に頭が下がりっぱなしだ。サンキュー両親。

 その飲み会にはいろんなメディアに出ているAさんだったり、あのデザインをしたアートディレクターBさんだったり、誰しもが知ってる曲を作ったCさんだったりとか。コンプライアンス的にあんまり言えない自分がやっている仕事とはまた違ったことをしている人がたくさん。その中になんで自分がおるんじゃろうかと思うこともあるけど、今までもそんな感じだったなぁと顧みる。前職のときは、マーケターなら誰もが知ってるD氏とか、大企業の執行役員E氏と仲良くさせてもらったり、今社会で話題の社長F氏と毎週仕事で顔つき合わせてたりしたなと。ちなみに前述のアルファベット諸氏はもう二度と出てくることはないし、ここのパラグラフはいわゆるふくらし粉だ。読む意味は無い。

 昔からあれよあれよと新規のコミュニティに潜り込むことがあって、うーん、前世はスパイ活動でもしていたのかなとも思う。それともウィルスとか細菌の類だったんだろうか。どのコミュニティだろうが、お呼ばれしたら絶対行くことにしてるし、全部大事にしている。もう少し年齢が上がると、年下に自分のコピーみたいな人が現れるかもしれない。その子を同族嫌悪してしまうかもしれない。それが一番今怖い。素直に誘えない気がする。

 自分のどこが皆の琴線に触れるのかはまだ分からないが、その分からない何かをなるべく大切にしていきたい。その理由に気づきたい。理由が分からないものに対して、僕は距離を取ってしまうから。いるかも不明なその子を傷つけないためにも自分のことを知らなくちゃいけない。