マレーグマの頭のなか

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秒針を消す/初夢/全身脱毛

 会社のMacBook Proの時計表示の秒表示を消しました。見つめていると、すごい勢いで時間が過ぎ去っているような感覚が秒数の変更とシンクロして、不安で押し潰されそうになったので。

 

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 初夢を今朝見た。正確には多分、覚えていなかっただけで夢を見ていたのだろうけど、覚えてなければそれはなかったことになるのが人間だ。事実は紙に書かれたことではなく、今目の前で行われている行為でもなく、脳みそに刻まれたかどうかでしかない。さて、夢を書いて供養しよう。

 

女性が出てきた。数年前に一瞬でも目を奪われ、好きになった人だ。元カノではない。むしろフられた人と言ってもいい。

「あー!久しぶり!ねぇ見て」

彼女は左手の薬指を見せた。ああ、前髪をきったんだね。どっちもやっぱりかわいいね。ていうかそれって結婚したってこと?今の彼とは結婚する気無いって言ってたし、まだまだバリバリに働きたい。30歳超えてから結婚は考えるかなーとか言ってたじゃん。そしてさらにこう言った。

「この子、うちの子。かわいいでしょ」

彼女は僕に自分の子供を見せつけてきた。ああ、この子はついに付き合っていた彼と結婚をし、子供を授かったんだな。でも僕は一瞬でも好きになったから悲しいよ。子供はかわいいね。僕は辛いよ。

 

といったところで目が覚めて「悪夢だな、これが初夢か。やれやれ」と村上春樹っぽいセリフをわざと口にしながら洗面台に顔を洗いに行った。夢の中で、これが夢という真実に気付いてしまったときにはもう言葉を発することはできなくなる。だから、映画のようにスクリーンを見つめてこれから起こることを享受するだけの存在になっている自分は、自分の受けた印象をただただ脳みそに刻みつけるしかなかった。

 

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 「全身脱毛する女ってどう思いますか」という質問を投げかけられた。僕は非常に困った。この答えのない問題に対して最も適切な回答はなんだろうと小一時間悩んだ。何のために全身脱毛するのかを考えると結局誰かのためでもあり自分のためでもある。どっちかというよりもなんか二重らせんみたいに重なり合ってる感じがして、結局どうなん?ってやっぱオマエ次第やろみたいな結論しかすぐには出せなかった。「なんかビッチっぽいですよね」と言われ余計に分からなくなってしまった。

 一晩、二晩寝て、今日の通勤のバスに揺られながらふとこの質問に対しての答えが浮かんだかもしれない。この問題に対して世間一般論的な答えはないのだろうが、どこにその行為の嫌悪感とやってほしいポイントが個人的に存在しているかを考えた結果、

「全身脱毛を僕に見せたいがためにやってくれるのであれば非常に嬉しい。しかしもし、それが僕ではない誰か他人のためにやったのであれば、そこに不快感が出る。それは僕にとっては経緯の分からないタトゥーと同じような不快感なのかもしれない」

という結論に至った。

 結局は僕は自分のためにしてくれた行為にのみ反応するのだろう。質問した相手がよくなかったか、どこまでもケチな野郎だ。

呪いは明けたか

 あけましておめでとう、自分。

 昨年末、末も末から恋愛運が向いてきたのか分からないですが、今のところ順調っぽいですね。ようやくあなたは二年間の呪縛が解けそう、というか振り切れるくらいになったんでしょうか。魔女によってカエルになってしまったどこかの国の王子様的な、悲劇的なナルシシズム寄りな気持ちをずっと呪いとして抱えたままだったような。それは流れた月日が精算してくれたのか。それとも十日ほど続く毎日のやり取りのおかげなのかはまだ分かっておらず「こんなこともあるんだなぁ。いや、むしろこんな感じだったかもな」と久しく湧き上がるこの感情や身体的な違いを感じています。

 

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 今まで深く悩んでいたこともパーティに担ぎ込まれた生ハム原木のようにスリムに削ぎ落とされたところで、今年はどんな年にしようかと、会社のデスクに座りながら考えているわけです。去年の自分はどうだったかと振り返ると「若いころの真似事をしてみました」というのがピッタリな気がしています。

 学生ぶりにしたことがたくさんありました。深夜バスで旅行したり、青春18きっぷを使って実家まで帰ったり、夏休みはキャンプをしたり、友人と度々キャッチボールをしたり、毎週末のように友人宅に集って録画したブラタモリを見たりゲームをしながら宅飲みをしたり。なんだか大学生に戻ったような気持ちで毎日過ごしていました。ただ、気持ちまで学生気分になってしまったのか、自分に足りないものまで浮き彫りになったような気がします。

 おそらく以前にも書いたかと思うのだけれど、自分に足りないものは「欲」なんだなと気付かされました。快楽と欲は似ているようで違っている。やりたくないことは多けれど、やりたいことはほとんどなく、何か時間やお金やコンテンツを消費するだけで生きていました。今年はお金や何やらを消費するにしても、何か作り出すことを目標にしたいと思いました。それが文章だろうが映像だろうがなんだろうが、自分の快楽のためだけでなく、他人に何か与えられるようなものを産み出せたらなと。

 

ふりかえり

 こういう考えを持ったのは、誰が言ったか「三つ子の魂百まで」それ曰く記憶が芽生える小さな頃からではなかった。日々の生活で醸造されてきたものだった。あの時全能感を持ったままに過ごしていくうちに何かのはずみで自分は ”そうでもない人” だと気付き、そう勝手に思い込んで、その気持ちが段々と強くなっていったからだ。普通の人で、普通の生活をしたいと。

 

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 今日で、今年のお仕事は終わり。この一年は充電期間のようなもので、仕事らしい仕事はしてなかったように思う。去年がバタバタと忙しかったとも言える。それが良かったのか、悪かったのか。この20代の終わりを迎えるの貴重な時間を無益に過ごしたのか。はたまた人生の夏休みとも言われうる大学時代の如き楽しさを享受して、華を添えられたのかは、いつか後悔したときに振り返って気付くことになると思う。

 

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 自分に ”欲” が足りないことを、この一年は実感した。毎日のように定時で家に帰ってもやることは特に無かった。無いなら無いで、何かをするわけでもなく寝ていた。僕はひょっとしたら人間以外の動物かもしれないと何度も思った。結局きっかけもなく今年も年末まで流れてしまった。

 まるで漂流者だ。だだっ広い海の上をイカダで漂流して、何か変化を求めて彷徨っている。時間という波に揺られている。決してこちらから無人島を探しに行くわけではない。ゆらゆら流れていくウチに、雨が降ったり、波が立ったり、ウミネコが自由に飛んでいるのを眺めて「お前はいいなぁ、どこにでも行けてさ」なんてつぶやいているだけだ。たまに並走する瓶の中に便りが入ってたりして、それを読んで喜んでいた。

 ”欲” は何かをするためのガソリンで、それが入ってないとガス欠で前に進むことができない。いくら優秀なエンジンで新品のタイヤを履いていてもガソリンがないとダメなんだ。最近はハイブリッドで電気で動く自動車もあるけど、”欲” だけじゃない別の動機で動ける人はもっと強いと思う。多分信念とかそういうものだろう。世界平和を実現するためには欲だけでは難しいから。

 爪の間に挟まった土をほじくり返すように、たまに痛い思いをしつつ簡単に振り返った。来年は欲を出していかないとな。

ニワトリ頭

 月曜日だし、何か書いておこうという気持ち。この毎週湧き上がってくる気持ちは嘘ではないけれど、しかしながら書くようなテーマや出来事は全く無いのである。周りの群衆は気持ちが先か、出来事が先かと話し合っているのをたまに耳にするけれど、それこそニワトリとタマゴの問題のようにぐるぐるぐるぐると思考が回り続けて一向に結論にたどり着くはずもない。とはいえ、おそらく周りの群衆はとうに結論は分かっている。気持ちが先でそれを満たすものなればそれでよいのだ。所詮ニワトリの頭で書かれるものなんて三歩あるけば記憶から抜ける。また週頭になれば気持ちがフツフツと湧いてくる。

 

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 去年も買ったのだが、宝くじを購入した。年末ジャンボ宝くじを買ったのは去年が初めてで、去年は謎にワクワクしてしまって片手に収まるだけの300円が手に入ったときに、当たるわけがないのに期待してしまって、俺はなんてちっぽけな人間なんだと悲しくなった。しかし人は、いやニワトリは記憶力が足りないのでまた買ってしまった。会社のデスクの見えるところへ置いて、眺めては当たれと念じている。

 「宝くじは夢を買うものだ」というのは言い得て妙で、たった3000円程度で「もしも7億円とは言わず1000万円当たったら何を買おうか」という妄想ができる。GoogleMaps は旅行する楽しみを手軽にできるようになった、反面その楽しみを奪ったとか言われたことがあった。宝くじは全ては妄想の中だけでの話なので、それを実際にやってこそ真の意味ができあがる。10億当たればもう何もしなくてもいいだろう。これからは自分のやりたいこと全てやればいいのだ。妄想を書き出すことができる。もしも当たらなくても、それを一つずつこなしていけば人生がいいものになるのだと暗に言われているようだ。マッチ売りの少女は擦って灯った火を見ながら暖かいストーブや七面鳥の幻影が見えたという、それと何ら変わらない。そう、僕らはニワトリの頭をした少女だったのだ。