マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

キャンプ

 先日、新潟にキャンプしに行った。ちょうど台風が日本列島に上陸するかしないかのタイミングだった。決行か中止か怪しいところだったが、自称晴れ女がいたおかげで、僕の雨男っぷりが相殺されたようで無事楽しく終えることができた。

 新潟というところは裏日本の一つであり、年中曇りと雨と聞いていた。聞いていたとおりの曇り具合は健在だが東京よりよほどカラッとしていて過ごしやすいところだな、という印象になるくらいには好きになった。風の強い夜を越え、続けて曇りの朝の早いタイミング、まだ関東全域は雨の予報だった。まだ雨は降っていなかったが、これから降ってくるようなぬるい風と暗い雲があたりを包んでいた。

 テントから徒歩数分のところにあるトイレに行く途中、山の開けたところから、遠くの山々と尾根の棚田がよく見えた。よく見ると、とても青い。緑生い茂る山は碧く、棚田は緑がかってまるで皐月のような景色だった。あぁ空気遠近法ってまさにこのことなんだなと、実感を、した。頭では分かっていたものの、これだけ色が変わってしまうのかと。青くフィルターがかかったようなぼんやりとした景色が、キャンプをするということを象徴しているような気がして、みんなが片付けに勤しんでいる間も僕は何かを噛み締めていた。

アカネ色に染まれ

 佐藤雅彦の講演会、というか授業に行ってきた。クラウドファンディングサイトと東京藝大が手を組んで研究を加速させるためのプロジェクトをやっていて、その中に佐藤雅彦研究室の映画を作るプロジェクトの支援をした。その支援に対するリターンとして授業を2コマ受けられる権利を得たので、まだ残暑厳しい時季に小躍りになりながら上野まで向かった。佐藤雅彦の大ファンとしては授業聞くことができるなんて一生の思い出だ。

 

 終了後にため息しか出てこなかった。メモ用に買っていった文庫本サイズのキャンパスノートを一冊使い切るくらいにはたくさんの、有用で、心が震える、何度も読み返したいメモを、一心不乱に殴り書いた。家宝が出来上がった。このブログに軽々と書けるような安いものではない。たった3時間の授業で家宝になった108円のノートに書いた教えが、自分の中に浸透しきってから「あぁもうこのノートは自分に必要ない。別の誰かに託したり教えてあげたい」と思ったときにまた書くかもしれない。それが数ヶ月後なのか数年後なのか、はたまた墓まで持っていくのかは今のところ検討もついてないがなるべく早く手放したい。こういう風にして宝物に呪いがかかるんだろう。

 

 いやいや、そんな自慢がしたくて筆を滑らしたわけではなくて。あぁ佐藤雅彦ほどの天才ですら、いや、彼のような作り方をしている人だからこそそうなんだろうなと思ったことがここに一つ。それは「自分の中に面白さそのものは無い」ということだ。彼が明確にそういうことを言っていたわけじゃなくて、僕が授業の中でひしひしと伝わったことの中の一つがこれだった。ただ、面白さの基準というのは自分の中にしかないということも同時に言っていたように思える。

 

 彼はクリエイターである前に蒐集家(コレクター)なのだ。もちろん佐藤雅彦自体は既におもしろいものをたくさん作り続けている第一線のクリエイターなのだけど、彼は自分の周りで起こっている面白い現象を収集し、どうして面白いと感じたのかを分析、言語化、体系化し、それを作り方として昇華させている。非常に理系的なアプローチだと思う。

 

 安い言い方しかできないが、自分の中に何か面白いものがあると勘違いして深掘りしていては一生抜け出せない穴ができている可能性があるなと。そして、イヤホンをして耳を塞いだり、先月月賦を払い終わったiPhoneSEに釘付けになりながら歩いていると、iPhoneのアンテナが拾ってくれる見えないものは見えても、いま目の前にある見えるハズのものに気付かなくなってしまう。世の中の機微に気付かせてくれるアンテナは自分の中にしか無い。更に分析し、言語化しなければ面白いものを消費して終わるだけになってしまう。まずは収集活動を始めよう。

 

 佐藤雅彦も30歳からクリエイター部署になったとおっしゃっていた。彼と違って東大卒でもないし、電通勤務でもないけど、彼が大丈夫だと言ってるなら信用したい。信用するかどうかの判断軸もきっと自分の中にしかないから、まずは自分の判断軸を信用するところが収集のスタートだ。

サイトの役目

 これから話そうと思うのはきっと目新しくもないユーザー・エクスペリエンスの話。珍しくもない ”クソWebサイトの話” ひいては ”ユーザーがどういう気持ちで情報を得るか” です。こういう仕事に近い話をメモ書きレベルでも書くのが久々だなぁ。

 

 とある有名スポーツブランドのサイト。とても凝った動きがついていて、canvas内に描画されたコンテンツがスクロールに応じて左右にスライドする、それはまぁ見た感じ設計よりデザインよりコーディングに工数がかかってそうなサイトだった。

 しかし一見超かっこいいで済ませられそうな感じなんだけど、僕はそのサイトがクソだなとしか感じられなかった。というのも、Ratinaディスプレイだと死ぬほど重すぎて使い物にならなかったから。スクロールに対してのインタラクションが遅すぎて、見たいものも見れない。そもそも見たいものが何なのかも感じさせないくらいに重い。このサイトが閲覧者に対してどれだけの価値を提供できているのか疑問にしか思えなかった。口は悪いが、ブランド担当者と製作者のエゴの塊で作られたサイトだろう。サイトを見ていてこちらの思惑通りにいかず、ここまでストレスをサイトに対して感じのはなかなかない。

 それとは別のサイトで今時珍しいSPA的遷移もなく、プレーンなテキストと画像と少しのインタラクションのサイトがあった。情報量やインタラクションのタイミングやイージングなど少し気になるところはあれど、全くストレスなく閲覧することができた。

 

 Webサイトに関わらずアプリもそうだけど、既に、与えたい情報に対していかに目新しいものを提供するのか、ではなくいかにして相手にストレス無く情報を提供するのかにシフトしている。情報の経路がいくつかある現状、じゃあどこでもいいじゃんとなっていくのであれば最も得たい情報に対してストレスの少ない経路で十分だと。それが正しいカタログが付帯していなくても。最近廃れてはきてるが、分散型メディアの考え方もこれに近い。いちいちSNSのアプリからURLをタップしてSafariを開いて見たくもない動きやアニメーションにギガを消費して情報を得るよりもそりゃユーザーが楽だもんなぁと。結局はストレスない生活、ストレスをコントロールすることを製作者側はもっと考えなくてはいけない。情報の提示方法だったり、タイミングだったり、関係の切り方もそうかもしれない。

 

 なんてことを会社の人とSlack上で話したのでなんとなくこっちにも備忘録的に書いておこうと考えたのであります。

読書感想文:知らない人に出会う

 「知らない人に出会う」

自分が何か行動を起こすときは目的もなくただなんとなくが8割を占めるのだが、この本に会ったのもただなんとなく本屋に行ったときになんとなく目についたときだった。そして、可愛らしい犬のおしりと印象的な黄緑のタイトルと帯を見て、タイトルだけを一瞥し「そうだよな、知らない人に出会うってのは確かに大事だよな」と心で頷いて買った。

 

本書は知らない人に出会い、話しかけるのはハッピーでとてもファンなことですよ。だからみんなも一歩踏み出してみませんか?的な本だった。なんというかこういう本は例示が多くてダレる。読んでて目が滑るのは僕の集中力が足りないのか、著者の能力が足りないのか、はたまた翻訳家の技量のせいなのかは分からないが。8:1:1で僕が悪いのだろう。

 

「知らない人にこんにちはと言ってみよう!」と言われたって、こんにちはと言ってもいいがその先のことを考えてないと我々は不安なんだということをもっと知ってほしい。一回知識として知ってしまったら、知らなかったときのことを思い出せないのだから仕方ない。「素敵なワンちゃんですね!」と声を掛けたところで冷凍都市TOKYOでは犬に電柱かのごとくおしっこを引っ掛けられるか、飼い主に白い目で見られて後日不審者リストに載ってしまうだけだろう。むしろ、その後の対処の方が喫緊我々が知りたいことなのだ。知らない人に話したいのは誰だってそうなんだ。無視された後のメンタルの戻し方とか、頬を打たれたあとの気合の入れ方とかそういうのを米国人の豊かなユーモアセンスで切り替えしているような本だと思って買った僕がいけなかったんだ。ちなみに「所得格差が小さいほど他人を助けたりする割合が高い」や「なんらかの状況における少数派はお互いに気づきやすい」などわりかし面白い言説についても取り扱っているのでそこらへんは非常にGOODな情報として受け取っているので全部が全部期待はずれだったわけではない。

 

知らない本に出会うのは平気な顔して手に取るのに、知らない人と「こんにちは」と声を掛けることはこんなにも難しい。セレンディピティっていっとき流行った単語のように偶然の良い出会いも、知らない人が知ってる人になってしまったときに運命や必然になってしまうのも自分がその行為自体を拒否している原因かもしれない。偶然は偶然のままに、なにもなかったことにしておきたい。必然というのは予感が先にきてこそのトキメキだ。

 

まぁなんとなくで買ったものだけに期待を上回ることはなかった。ただ、間に挟まっていた武田砂鉄のショートコラムは非常に共感できたしこれだけでこの本を買った甲斐があったなぁと思ったことは確かだ。これはきっと中古で買ったらついてこないだろうから、新品で買って得したなぁ。

 

あ、あとこの本の装丁をしたところが実は知り合いが勤めているデザイン会社だったりして世間は狭いなぁという気持ちと何となくそういうのが目についちゃうのかなという必然性にクラクラしました。

NPCの住む街

 新宿には電車で数駅、自転車でも十数分くらいで行ける圏内に住んでいる。家で何か足りないものがあれば、新宿まで行って何かを買って埋める、そんな生活をしている。新宿で用を済ませて帰ってくるまでおよそ一時間と少し。その間で、いつも、ものすごく孤独を感じる。その買い物の間で何百人、何千人とすれ違うのにメッセージの設定されていないNPCのようだ。相手から見ると、僕もその一人だと思われているのかもしれない。

 何度も何度も反芻している。東京は住むのには楽な街だけど、生きるのにはとても苦しい街だなぁと。東京生活10年目にして更にしみじみと思う。水中に酸素が少なく、パクパクと水面で口を開いて閉じてを繰り返している金魚のような感覚に陥る。東京に出てきた田舎者のぼくらには、真の安息は実は借りている部屋ではなく、ここではない別の何処であり、それを皆いつまでもいつまでも探し続けているのかもしれない。