マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

勝手に湧き出る泉などない

 一旦仕事が落ち着いた(ように見える)。明日が休みというのも相まって、こうなんというか仕事にあんまり身が入らない。ピクニック前日のキッズ心が僕にもまだあったということなのか。金曜日も翌日が休みだし、今週は身が入らないデーが続きまくるぞ。仕事が終わらないぞ。

 

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 最近の仕事はコンサルティングが主となっていて、先の本に共感することが多かった。それはそれで自分のことにいつも通り立ち返るんですがどうにも手応えなく進むことがある。相手に伝えたいことを考えて、ほいでその資料作りをしていて、この方向で良いんだろうなーという憶測や経験からの勘は働くのだけれど、本当にこの方向に進んでいて良いのだろうかと霧の中を進みながら考える。

 資料作りの手伝いをしてもらっている同僚にも犬の道に入っているかもしれないと思われているかもしれない。最初にやっていたことと最終的に収集をお願いしたデータが地続きでないこともしばしばあった。そうして二人して四苦八苦しながらなんとかそれらしい結論を導き出すものの、この結論に対して確信が無い。迷いつつ辿り着いた結論というのは苦労したからこそ、見つけた後の爽快感はあれどそこまでの道のりの長さ故か、手離れが悪い。

 その自信のなさ故にクライアントとの打ち合わせの前には必ず上司やその上司に「あのーすいません、これで本当に良いんですかねぇ」といった気持ちで資料を見てもらったり発表を聞いてもらったりすると「めちゃくちゃ良いじゃない」「感動した」「クライアントの反応が見たい」なんて賛辞をいただいたりする。惨事を期待するもその度に安堵するのだが「ありがとうございました。資料調整しときますね!」なんて席について一息ついてやっぱり我に返ると「いや本当にこれでいいのかな…」と不安になる。そしてプレゼンへ…。というのを結局三度繰り返して、クライアントから信頼を得ているってことは今までやってたやり方は間違っちゃいないんだなと再確認した。

 先日読んだ「イシューからはじめよ」には、Amazonがやっているプレスリリースを書いてからその通りにサービスを作る方法(Working Backward - http://news.mynavi.jp/column/svalley/391/)みたいなことが書いてあったように思える。結末が見えていない状態で何かしら手を動かす作業に入っても、それは本当に大事なことまでの距離が遠い、無駄の多い犬の道に入ってしまう、だから結末を先に決めてからやることも一つの手であると。

 自信なくクライアントにプレゼンするのは良くないと思ってWorking Backward法でやってみると大体結論に自信なき根拠があり、強いために割と自信を持ってプレゼンテーションを行える節があるなと社内向けに話していて感じる。とはいえ、振り返ってみるともっといい方法があったのではないかと自責の念みたいな重い石が膝の上に乗っかってきたりするのでどっちにしろ自分自身に対して自信を持てるようにならないとダメなんだなと思いました。オチはないです。

読書感想文:イシューからはじめよ

「イシューからはじめよ」

 

 この本は半分以上課題図書的な感じで読んだ。課題と言っても会社からの厳命というよりも自分の中で早いうちに読んでおかなければいけない本の一つとして心の本棚にそっと仕舞ってあった。会社の移転祝いとして寄贈されて、誰かが持っていかないうちにサッと手に取った。前々からタイトルだけは知っていて、海外の訳本だと思っていた。日本人が書いていたためかくどい表現が無く、非常に読みやすく、明晰な文章でページをめくる度に首肯が止まらない。赤べこになれる。

 

 内容を雑に言えば、人の命は短いからバリューのあることだけをしよう、そしてそのためにはどのような心得を持たなければいけないのか、著者の仕事であったコンサルタントはどうやって人を説得しようとしているか、が書いてあった。ちょうど今仕事ではエディタに向わずにPowerPointとにらめっこしている自分にとってぴったりの書籍であったことは疑いなかった。

 

 そのうち情報収集についての項目の「一次情報に触れる」というサブタイトルのパラグラフについて首がもげるくらいに頷いた。10年近く昔にした痛い思いを、自分でも忘れていた記憶の奥深くから、泡ボコが上がってくるように浮いてきた。

 あれは大学2年生の、某大学のインカレサークルの広告研究会に入って二回目くらいの制作を考えていたときのこと、23区内のとある楽器屋と提携してそこの広告を作ることが課題だった。確か、マンダリンだったかウクレレだったか電気的でない弦楽器の一部が有名だった気がする。そして当時の僕らが無い知恵を絞って色々コンセプト出しとかをしたのだが、4班全てが高年齢層へ向けた広告グラフィックを作った。内々では、悪くないねーとかやっぱそういう方向性になるよねーなんて言いながら講評をした。しかし、その全てが大失敗だった。というのも、そこの楽器屋さんのメイン層は学生だったのだ。だからその楽器屋はそういうグラフィック広告を期待していたのにも関わらず、僕らは明後日の方向をゴールだと勘違いしていた。今考えるとブリーフの段階で間違っていた可能性が高いのだが、我々はインターネットや自分たちの中にあった考えだけで動いていた。僕はそのときに「楽器屋さんに直接聞くという当たり前のことが何故できなかったんだろう」と酷く落ち込んだのを覚えている。だからこの講評結果を聞いた時のことを忘れることが未だにできていない。

 

 今自分が何かを企画するときはなるべく当事者や関係者、既に道を通った人に聞くようにしている。自分がやってきたことだけが来ないことがコンサルではよくあることだから。そのやり方が間違ってなかった。自分が受けたショックが、間違っていなかったのが再確認できてよかった。それだけでも読んで良かったと思っている。もちろんそれ以上のことが得られた。

 

 分析の種別やそれを図式化する際に念頭に置いておくことなど、今まさに困っていたことが書いてあったりしてタイムリーだなぁと思いながら読み進めていた。後輩に今読めと言って渡している。早く読んで答え合わせをしたい。

 

目的地と楽しみ方

 デートの場所を決める時に、みんなどうしているのだろうか。急にこんな高校生みたいな素朴な疑問が出てきてしまった。よくよく思い返してみると、自分から「どこどこ行きたい」って言うことは今まで3割無かった気がする。おおよそ相手がどこに行きたいというので、はいはい行きましょうと言いながらついていくことばかりだった。

 自分でも驚くくらいに欲がないので、やはり行きたい場所というのも出てこない。そもそも行きたい場所というのは何なんだろう。何か目的があるのだろう。例えば紅葉が見たいから日光に行くとか、温泉に入りたいから熱海に行くとか、安藤忠雄の展示が見たいから六本木に行くとかそういうどこかに目的を決めて行き先を決めることが普通なんだろうか。先週末は三沢厚彦の展示を見るために渋谷区立松濤美術館に向かった。家からもそこまで遠くないし、入館料500円の破格だし、現代彫刻割りと好きだからちょうどよかった。そう、多分何かしら天秤に掛けまくってちょうど釣り合っているものしか選べられないのだ。大抵の場合、天秤に予め乗っている分銅は手垢ついて錆びまくった ”自宅” であることは確かなのだが。

 こういう話を吐き出していると、そういえば小さい頃は家族以外と遠出することがなかなか許されなかったことを思い出す。団地が山の上にあるためか、都会に出歩くためには山を降りなければいけない。しかし、それには危険が伴う…ってなんか熊の親子みたいな話になっているけれど、つまりは自転車で鼻歌を歌いながら行けるような距離じゃないってことだ。でも、たまに土曜の半ドンが終わったら、友人と歩いて今で言うところのイオンモールみたいなところにあるゲームセンターに行ったりしていた。まぁ小中学生の9年間で両手で数えられる程度の回数しか行ってないけど。お金も無かったし、目的地に着いても割と手持ち無沙汰で、周りの友人が何かを買うのを見ることしかやることがなかった。自分の中では目的地が最も面白いという概念はあまり大きくないように学習してしまったのかもしれない。

 高校生になってからは、都会の高校に通った。バスで山を降りて、最寄りの駐輪場から自転車で学校まで行っていた。およそ50分程度の道のりだ。都会とはいえ、あまり遊びのある場所には向かわなかった。それよりも友人と居る方が楽しかったからだろう。そして真面目な自分は部活か勉強しかしてなかった。バイトも禁止だったし、毎月のお小遣いは新しいステータスであるソニーの携帯電話でほとんど消えていった。自制心だけが強く育った子供。ただ、やっぱりお金を消費をせずにいつもと同じことをし続けるのはあまりにも面白くなかった。そこで編み出したのは駅から目的地までの自転車をほぼ毎日違うルートを使って通学することだった。毎日ほんの少しだけ違う道を通ることだけが楽しみだった。ここに誰かの家があって、喫茶店があって、猫がいて、犬がいて、川が見えて、ちんちん電車が通っていて、駅と繋がっている道を見つけて喜んでいた。

 目的地までの道のりをどうにか自分の意志で進むことだけが自分の娯楽の楽しみ方だった。だからこそ、自分にとって目的地メインであるデートの行き先を決めることは難しい。このやり方に付き合わすわけにはいかないとも自分では思っている。この楽しみ方が変わるとも思えないが、もうちょっと目的地で楽しむ術を学んでいかないとなと、週末になるたびに思うわけである。

メモ

「あ~それってさぁ、『縦になる』って言葉があったとしてさその意味は『直立する』ことなんだけど、でもそれって既に一般化されてる『横になる』って言葉から派生したであって、元々はなかった言葉じゃん?キミの言ってることってそういうことなんだよね」

 

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固有名詞や人名に対しての預言と、一般名詞や行動のあるあるはニアミスする。

山田太郎は球拾いをする」というのは預言。

「野球は球拾いをする」というのはあるある。

読書感想文:戦略の教室

「戦略の教室」

会社に置いてあったこの本を手に取った。まさか古代の中国の戦争における戦略なんて書いてないだろうと思いつつ、出版社のダイヤモンド社と、筆者の肩書のビジネス戦略コンサルタントと、うちの会社がマーケティングの会社だと自分で言ってることを考えればこれがマーケティング戦略の本だということは上記3つの要素から満貫8000点って感じなのだが、まぁこういうのも知っておいて損は無いだろうと気持ちそのままに読んでみた。

 

こういう本を読んでいて思うこととしては、我々、木っ端の戦闘員いわばショッカー向けに書かれているのだろうかと。世の中には肩書持ちよりも圧倒的に平社員の方が多いわけで、なのにその人達が頭空っぽにして読めるような本ってあんまりないよなと思っていた。特に会社では洋書のマーケティング関係の邦訳を読む機会が多いので、余計に思っていた。ジョブ理論は面白かったけど、例示がダラダラと長くて退屈だった。全部読まなければいいのにと言われるかもしれないが、たまに例示にいいことが書いてあるのが逆にキツい。ゼロならゼロでやってほしい。

 

しかし、これは思ったより物語でもエッセイでも論文でもなくて、読みやすい。要点が抑えてある。なんとなく時系列っぽく流れてある。といった感じでショッカーにも仮面ライダー1号にはこうやって戦えばいいかもしれないっていうのが伝わるような気がした。

 

知ってる人は有名な戦略が多いので、おさらいのような感覚で読むことができるし、2時間で学ぶというタイトルの通りスイスイ読める(自分はおよそ3倍かかったけど)ので楽しく学びたい人にオススメである。