マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

20190528

 

 なんか書くことあるかな。最近、友人が成長について悩んでいた。

 「自分としては転職をする理由は成長をするため。しかし、転職活動が上手くいかないためにネガティブな思考に陥ってしまった。別に生きる上では成長が必ずしも必要じゃないし、今の会社にも大きな不満はないし、どうしようかなと思い始めてきた」と言っていた。

 

 他の友人はそれに対して「特別になりたいわけじゃなければ成長はいらない。俺はどちらの生き方も正しいと思う」「自分の評価や他人と比べたときの評価を汲んで決めると良いかもね」「成長するか成長しないかじゃなくて、選択を自分で下して正しいと信じられるかが大切」

などと言っていた。確かに。

 転職を3回ほどしている僕から言わせれば、一つの会社にずっといられることは割と幸せだと思う。いられるならずっと同じ場所にいたかった。同じ場所に居続ける安心感はすごい。楽だから。楽に生きられることはすごくいい。多分脳に良い。何も考えなくてもいい。親が資産家で遊んで生きることが僕の最大の幸福だと思う。できることならば、そうありたかった。地球の裏側くらいの縁遠さだが。

 ふと考えると、僕らは職に就くまでに転職のようなことを強制的に何度かしている。それは小中高大と自分の器と比較して鞍替えをしていたことだ。考えるとヤドカリみたいだな。自分の収まるべき器はどこなのか。受験は器と真実の姿を天秤に掛けていたようだ。

 

 しかし、器がすっぽりと自分を覆い包んでくれても、モヤモヤが晴れない人はたくさんいる。それは楽に流された人たちだ。何も考えずに器を決め、器に収まった人。つまり僕もその中に該当するのだが、楽に流れるとモヤモヤは心に滞留する。

 どうすれば解消できるか、友人の言葉にもあるが、それは自分で選択することだ。それ以外にはない。選択するためには根拠が必要だ。根拠のない選択は、後悔を生む。誰か、何かに責任をなすりつけるようになる。鉛筆を転がしてした決断を鉛筆のせいにする。なんとなくで決めた決断は雰囲気のせいにし、その場にいた人のせいにする。根拠は自分の中に持っておく。

 根拠は何か、それは自分がどうなりたいか、どうありたいか。自分のビジョンだ。そのビジョンに向かって必要な成長ならば、それを取る決断をする。ビジョンのためには必要のない成長なら切り捨てる。ビジョンは決断ができる根拠になる。

 

 今の僕のビジョンは本当にしょうもないものなので、ここに書くことはしないが、それは若い時だと通用しないと思う。具体性が乏しいからだ。若ければ若いほど具体的で、大きく人類規模で、キラキラしている方がいい。本田圭佑も言っていた。彼はビジョンとそれを達成するための覚悟が大きければ大きいほど実現可能性が高いとも言っていた。

 僕のように若者と中年男性の狭間の人間は、腕を広げた精一杯の関係からどうするかを考えた方がよい。抽象的で、手の届く範囲からできることで、おもしろおかしい方がいい。特におもしろおかしいというのは大事で、楽しい方を選ぶことでやはり楽しい人生を歩めると思う。

 

 これを友人が読むかは分からないが、転職や昇進、結婚とかいろんな決断があると思うが、根拠を自分の中に持った方が幸せになれると思う。俺は楽しい方を選んだ。一人暮らしよりも二人暮らしの方がきっと楽しいと思ったから大変だったけど結婚をした。いつも9時起きで早起きは嫌だが楽しそうだから犬を飼った。朝起きるのは大変だ。それでも俺の思うビジョンに俺は向かっているように思う。後悔はしていない。友人にもたくさん悩むと思うが、頑張ってほしい。

 

 最近は同じことしか書けてないが、結局書くことがないといつも考えてることだけになってしまうってことだ。