マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

しゃしん

 今、自分が写真展を開くとしたら、どういうテーマ設定をするだろうか。

カメラを友人に預けてから気付くと4ヶ月近く経っていた。触ってないカメラに対して畏れがあるような気がしている。時間は物事を深刻にする作用があるらしい。ちょっとばかり自分の昔話をしようと思う。

 このブログを始めるよりも数年前に僕はカメラを始めた、いや、写真を撮ることを始めた。僕はカメラに興味が出てこなかった。写真を撮ることは楽しかった。型落ちしたCanonのカメラと安い単焦点レンズでたくさん撮った。下手なりにたくさん撮ることで何がいいのか悪いのかを選別していった。スナップ写真を撮っていた。人に声を掛けることができなかっただけだ。背が低く、痩せている身体に産まれたことを初めて悔やんだ。先輩に声を掛けてもらって、ニュースサイトの写真を撮ることもあった。絶頂期のAKBを本物のカメラマンと一緒に撮れた。ウォール・ストリート・ジャーナルにも載ったりした。でも、やっぱり街中のよくわからない喜びや悲しみや楽しさや怒りなど複雑に混じり合った誰かの心情を、とにかく勝手にフレームに収めていた。そう僕が呼んだ感情をロランバルトプンクトゥムと呼んでいることを明るい部屋で知ったが、そこら中に「いい」ものが溢れかえっていることも同時に教えてくれた。自分が撮った写真が好きだった。それ以上にウィリアム・エグルストンの写真は好きだったが。あのころ見ていた街の解像度は本当に高く、鮮やかだった。

 それから5年ほど経って、すっかり写真の夢から覚め、熱も冷めてしまった。あの頃の熱情はなんだったのか、今となっては全くわからないほどに遠くに感じている。あれこそが自分にとっての自分探しだったようにも思えるし、僅かながらの社会への抵抗のようにも思い出される。

 今一度、幾年前の熱情を思い出すことが喫緊の課題だ。あの頃はテーマもクソもなくただひたすらに撮り続けていた。あのとき潤沢にあった溢れんばかりの時間も今はもう無いが、その中でもきっと撮れるものはたくさんあるだろう。あの頃の解像度を思い出したいのだ。