マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

思い出の削り節

何か、週に一回、ともすれば月に一回くらいのペースで誰かに読んでもらえるようなものを定期的にきちんとした形で出していきたい。では何が自分にできるのだろうかと考えた時に特にこれといった自分の強みに当たるようなものが出てこない。ならばやはり書評や映画の感想のような誰かの肩に乗っかるようなものがいいのかなと無い知恵を絞るとそういう結論が出てくる。レモンサワーで絞り終えたあとのレモンから絞ったくらいの美味しくも新鮮でもない一滴のそれだ。書籍にしろ映画にしろ漫画にしろ、自分が評するにあたっては知識が圧倒的に足りない。感想の域を全く出ることはないだろう。ああ、何もない人は思い出を消費するしかないのかと。じゃあ、エッセイとかなのか?と思い、会社のバックヤードへふらふらと自らの無能さに辟易しながらたどたどしい歩みを進めてPOPEYEを開く。エッセイとはどんなもんやと各有名人のエッセイを読む。一度、二度、読む。そういうことなのかと。インタビューも自分の住んでる街のことも、誰かの年月を削っているだけなんだ。かつおぶしなんだ。誰もが薄く削られた誰かの削り節を摂取しているんだ。何度か削れば消えてしまう素人のかつおぶしか、何度削っても旨みが出てくるような大きく太い専門家のかつおぶしかの違いなだけなんだ。今ここで読んでいる下手くそな文章も、ライターの人たちが時間を掛けて書いた文章も同じ誰かの年月を削った削り節だったんだ。そう考えてPOPEYEをそっと閉じて元の場所へ戻し、仕事の続きを始めた。