マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

物語の紡ぎ方を考える その1

 何かを書くか。

 物語を紡ぐに、まず結論すなわち伝えたいことが必要なのだろうか。いや必要なんだろうな。嘘をつくのにも、明確な目的なく行き当たりばったりでその場をしのぐために嘘をついていたらいつか崩壊してしまうだろう。物語も一本筋が通ったものじゃなく、その場で考えていては結果的に物語自体が崩壊してしまう。

 

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 けものフレンズをほぼ一人で作った たつき監督 が Youtube に今まで作り続けアップロードしてきた作品群をいくつか見た。毎日だろうが毎月だろうが毎年だろうが継続的に何か同じものをアウトプットし続けるというは大事なんだなぁ。それを誰かが見てくれているし、誰かが評価してくれるはずだ。これは長い間お世話になっている劇団 かもめマシーン の座長である萩原さんが俺にいつも見せてくれているものでもある。この大切な事実をやっぱり毎日毎月毎年でも定期的に確認しなければいけない。

 

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 これはようは「継続は力なり」をストーリーに仕立て上げたものだ。

 「生きた物語」は、生きた人から産まれるのだろうか。そもそも「生きた物語」とはなんだろうか。語り手が醸し出す存在感か、物語自体がもつ雰囲気なのか。生きた死んだは関係ないだろう。生きた人というのはただの比喩なのだから。

 「生きた物語」とは自分に共感の余地があることか、リアリティが自分にあると感じることなのか、身体に浸透する物語なのか、それを紐解く複数の道筋がありそうだ。何にせよ、それは物語側に紐解くものがあるというよりも、受け手である自分側にあるように思える。