マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

山の彩り

 僕は今、何か書いている自分の姿が想像つかない。

 そういえば、この飛石連休のまさに石と石の間である金曜日、有給を取って地元広島で土曜日に行われる広島カープの優勝パレードを見るために帰った。こんな時期に帰ることは珍しく、地元を離れて初めてのことだったので、なんとなくまたいつもとは違った顔の季節を見られることは嬉しかった。もう2,3週間ほどすれば深みが増して地元を囲む山が色付いただろうが、まだ青さが残っていて、少し時期を勘違いした一部のカエデが山の真ん中辺りで赤々と灯っていた。でも、あーこれこれ、この感じよねと気持ちも多少赤くなったけど、もうちょっと長く滞在できたら山が赤黄青とキレイな姿を見られることを思うと少し悔しかった。

 

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 優勝パレードは広島の人間が一丸となって感謝の気持ちを伝える場になっていた。選手は観客へ、観客は選手へと感謝の気持ちを交換しあっていた。僕も今年は毎日のように野球中継を見て結果に一喜一憂していた。試合に負ければ悔しくて野球情報を見れなくなって、勝てばどんな小さな記事も見逃さないように探していた。日本シリーズでは負けてしまったけど、こんな長い期間野球を、贔屓球団を応援したことは生まれて初めてだったから本当に楽しかった。他のファンはこんな楽しいことを隠していたのかと、もうちょっと早く教えてほしかった。プレーしていない姿の選手はみんな笑っていて、幸せそうだった。本当にありがとうという気持ちだ。来年のカープが見たいから、まだまだ元気で生きていかなきゃな。

 

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 「何か食べたいモノはある?」なんて聞かれたときにとっさに何か出てくるような人は欲求を保存する記憶領域があるんだろう。母親に対する質問なら記憶に紐付いたおふくろの味を思い出せば、ああコロッケ食べたいとかコンビーフとじゃがいもで作ったよく分からん名前の食べ物が久しぶりに食べたいなぁなんてすぐ出てくる。でものうのうと生きていると反射的な欲求でしかものごとを判断してないから大事に取っておくことができない。そうすると毎度野に放った欲求を探すところから始めないといけない。

 あと母親と友人に聞かれたときでは回答を出すための脳の回路は違ってくると思う。母親に聞かれた時はどんなときでもいくらでも言えるけど、友人では「ココ最近なに食べたかな」とか「こいつそういえば魚あんまり好きじゃなかったよな」みたいなところまで先回りして考えないと結局出した答えが無駄になってしまう。そういう意味では母親へは何を言っても回答になるが、友人では回答になりえない回答が存在する。自分一人ではそれが成り立たない可能性が高い。