マレーグマの頭のなか

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身体的な理性を求めて

無意識下で行われる歩く等の行為に理性を感じない人には、目を背けるようになった。

ここで言う「無意識」とは、意識が無いこと。意識しようという意識が無いこと。自分の行為に自分で気がつかないこと、かつそれは主観では気付くことのないもの。また「理性」とは本能やそのままの感情ではない自意識といって差し支えない。

つまり最初に一行を噛み砕いて説明すると、歩く姿や座る姿のようなほぼ無意識下で行われる行為に対して、他人から見た時の印象をコントロールしようという所作が欠片でも見られないと、魅力を感じずにむしろ見たくないものとして扱うようになってしまったということだ。

 

今、自分の体は非常に窮屈な状態に陥っている。いやむしろ陥れるように意識している。というのも、自分の二点の悪いところである「猫背」と「足を組む」習性を直しているからだ。これが非常に自分の普段使っているものしか使わないようになってると感じさせてくれる。我々は意識しないと無意識は直すことができない。無意識を意識することで自分に正面から向かうことになる。座り方一つでも自分がいかに楽な方へと身体が流れているかを感じるようになった。重力に逆らうかのように二足歩行をし始めた原人たちに少し悪い気持ちになる。しかし、その重力に引かれているがままなことが悪いことかと問われるとそれはまだ分からないが、他の人から見てそれが美しいものではないものであれば、積極的に直していきたい。まだ自分が美しいうちに、所作を美しいものにしておきたい。

 

無意識な行動が生活の中で増えれば増えるほどに時間の過ぎる速度は上がっていく。この時間の速度をゆるめ、毎日を小学生の時のような新鮮な気持ちで過ごすためには全ての所作を意識的に行い、自分と向き合うことが必要になってくるのである。