マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

可愛い子にはなんとやら

 

「世界で一番役に立たない動物、ウォンバット

彼らは他の動物が役に立つように最下位の座を握って離さないのだと考えれば、彼らのお陰で助かっている動物はいるのではないか。一応、役に立っている。でも、彼らはすごく可愛いからいいんだよ。役に立つ必要のないものだってたくさん必要だ。このブログだって誰かの役に立っている気がしないしな!

 

――

 

いぬじんさん(id:inujin)のエントリ

勝つ議論と、勝たない議論。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。

を読んだ。いぬじんさんのエントリしか読んでないんじゃない?と言われたらそうかもしれない。

内容もさながら、いぬじんさんの若い頃はどれほど尖っていたのか気になった。触れたもの皆傷つけるナイフだったんだろうか、今の文章からは考えられないし、多少は誇張しているんだろうけど、そこにすごい興味をそそられた。

今の穏やかさは何か事件があったのだろうかとも妄想する。過去のエントリをもっかい見直さなきゃ。

……

確かに、議論勝負をすることで自分の考えが潰される姿を見ていくのは辛い。非常に辛い。否定をされると全てが否定されたように感じる部分はあるので非常に辛い。人格否定されてるように感じるうんたらエントリもたまに見かけるけれど、そう感じる人もやっぱりいるだろう。

何故なら、アイデアは自分の分身または自分の娘とも言えるからだ。男でも産むことが出来る子供はアイデアじゃないか。ぼくはアイデアはひとり歩きをさせず、自分が服を着せたり飾り付けや太らせたり一生懸命世話をしてやって、やっと人目に触れるようになるとてもデリケートなものだと思っていた。

 

しかし、最近は意識が変わってきた。可愛い子には旅をさせよって言葉がどこまで活用できるのかは知らないが、アイデアをぼくの中ではないどこかに旅させることで思わぬ強靭な肉体としてマイホームに帰ってくることを体験したのだ。

 

今は、思いついたものを友達や仲間に言いふらし、ダメ出しをしてもらい、頭に入れといてよ!なんかいいもん思いついたらフィードバック頂戴!って言ったら、忘れた頃にぼくの中では生成できない新しさや着眼点を持ったアイデアとして返ってくる。また、全く違う分野の人に説明することで相手の事前知識もないので自身の認識も強固になり、明確な視点の違いが出てくる。この考え方はオープンソースの考え方に似ているんだろうか。自分以外の誰かのちからは本当に強い。

というか、面白いアイデアだ!と自分が思っているので雛の時点で見せるのがもったいない!ということ自体がもったいない。すでに勝負はこの自分が産んだ娘をいかに可愛くするかにシフトしている。誰かに勝とうじゃなくなってる。俺の娘を誰かの娘と競う時は来るかもしれない。その時は、自信を持って送り出したい。

 

 

先に商売にされてたくさんお金を取られたら確かに悔しいかもしれないけれど、それは我先にと実際にやらなかった自分に非がないとは言い切れない…よね?うん、いや、まぁ、その…。