マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

ペロン記念日

 

昨日から履いている長ズボンの寝間着のせいか、今日は会社に出勤するよりも家で作業がしたい気分なのだ。

 

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「外」

「妬(ねた)み、嫉(そね)み」って言葉はすごく好き。ねたみはまだしも、そねみって言葉は少なくとも自分の日本語体系の中では全く出てこないであろう言葉だから素晴らしい。やっぱり自分の中に無いものが外に見受けられると感動しちゃう。

 

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「表現は需要と供給から成り立っている可能性あるね」

 誰かの表現を見るのは非常に心苦しい。それが良かったものなのか悪かったものなのかという判断は数時間後だったり、数日後だったり、あるいは数年後だったりする。いつそれが「あー。」という気持ちになるかは分からない。

 「表現したい人がたくさんいるのにもかかわらず、その表現を見てくれる人がものすごく少ない」Tumblrで見た一言だが、確かにそうかもしれない。インターネットでそこら中に、ほら、この文章だってそうだけれど、表現者モドキが増え、誰かの表現を見る人たちが相対的に減ったのではないか。表現は消費するものではなく、生き続けるはずなのに、誰にも見られることのない表現がたくさんある。表現することがいいんだよ!という言葉だけがひとり歩きして、表現は互いに享受すべきなんだということを忘れてしまえば、表現の意味も、半分はなくなってしまうのだ。それも、心苦しい。

 

 

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「ぼくはばかまるだし」

 

インターネットを漂流していると頭が良くなった気分になるけれど、全くもってそんなことはなくてむしろ馬鹿と暇人のものという論が加速しているだけになっている