マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

「っぽさ」

 

 最低でも一週間に一度はなんか書かないと勿体無い気がするから書こうと思うけど、書くことが特に無い。今の日々が単調すぎてタンチョウヅル。かといって、今はそこに何かエッセンスを加えて単調を複調にしようとかそういう意図もない。あれ、これってうつ状態なんじゃね?とかいうとカジュアル鬱とか気軽に言うなハゲと罵られる。ハゲてないし。ツルかもしれないけどハゲじゃないし。

 

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 小説って数百ページもの分厚さで示された比喩だよね。僕の敬愛する星新一はそれを極限まで薄くした、まぁ薄い本。「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」とかのことわざも比喩だよね。俺のブログも年月を掛ける予定の比喩だし、自己啓発書も比喩だし、なんでも比喩だし。比喩じゃないものは自分の経験とか痛みとか。でもそれを口に出したりブログに書いたりしたらそれは比喩、なんかもぅそんな感じ。ぁたしダメみたぃ、っらぃ、チョベリバ。

 

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 子供の頃に染み付いたイメージというものを追いかけているはず。25歳の自分のイメージってどんなんだっけか…。もうちょっと大人で背ももうちょっと伸びてたイメージだけど、実際は高校からは伸びず。バリバリ働いているような気がするけれども、フワフワとしているイメージもあった。なんにせよ、もっと自由に働いているイメージだった。というか、あれだよ、労働なんてもんは僕がオトナになる頃には全部ロボットに取って代わられていて人間はいかに人間らしい生活をするかという域に達していると思っていた。今の僕は非常に残念な人間になっていると思う。これはドラえもんを読み過ぎたのか、鉄腕アトムを読み過ぎたのかは解らないが、染み付いたイメージの側にロボットが居たことは確かだ。

 人間がいかに人間らしい生活をするかってすごく矛盾を感じるというか、頭がいい故に馬鹿っぽい。犬は自分が犬っぽい生活をするとか考えてないだろう。俺がいかに俺らしく周りに振る舞うかなんて考えるのは全くナンセンスだけど、周りからの俺の役割を考えるのは意味のあることだ。なんでここにいるのか。ポジショニングの問題だろうか。俺っぽさは俺が認知していない部分で他人が認知して集積したものを他人から伝えられた時のものだと思う。確かに、僕が緑色が好きな事は知っているし、そういうものを集める習性があることも知っているけれど、自分が気付いてしまった後にもそれを続けていると 俺っぽさの演出:俺 みたいなダサさを感じる。ダサいことは嫌いです。

 

 そろそろ記事たくさん書いてきたから俺っぽさが何なのかを人に伝えられたと思う。