先日、鉛筆削り機を買いました。手でグルグルとハンドルを回すタイプではなくて、あのクーピーとかに付属してくるような小さいあれです。インターフェイスのスケッチをするときにシャーペンでなくて、鉛筆を使いたいなって思って、数年ぶりに買ってみました。ただ、STAEDTLER社のものなので、”あのサイズ”でも300円近くしたような覚えがあります。
サイズ感覚が気になります。手のひらサイズって言っても、大体全員が同じじゃないとはいえ、まぁ、大体手のひらの誤差って少ないと思うんです。プラマイ10cmあったらものすごいことだと。だけど、それよりもどんどん小さくなればなるほど誤差が増えてって何と言えばいいかわからなくなる。
「米粒くらい」みたいに相対的な物体との評価だと簡単だけれども、親指と人差し指を少し離した距離くらいってなんて言えばいいんだろう。ここで言う”あのサイズ”ってやつですね。うーむ、5cmという絶対的な大きさは感覚が同じではないので、相対的な大きさで示したいのだけれど、丁度いい物が無いとどう伝えればいいのか分からない。ふと、周りを見渡したら、個包装されたのど飴が、伝えるには非常に良い感じの大きさだった。
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「考えることを止めて人たちに多そう」
という一見すると、意味の分からない文章を、僕はネットの海に放ってしまった。推敲、とまでは言わないけれど、”submit”または”send”ボタンを押す前にちょろっとでも読めばいいのに。押した後に見返して何度も思う。
でも、人はちゃんと正しい形で理解してくれる。正解は「考えることを止めて”る”人たちに多そう」という言葉。ちゃんと、人はこれを文脈等から判断して殆ど正しい形で認識してくれるんだよね。すごい。9割が見えているからあとのワンピースを嵌めるだけで完成するんだけどね。それでも断片から全体を見る力が、数学的に言えば積分をする力が優れてるって感じた。
「~ご飯食べた小学生が泣いてた~」
って言葉があって、句読点を適当に入れたら文章の意味が変わる。文章が一つだったものが二つになるのだから。「ご飯食べた。小学生が泣いてた。」自分が食べたのか、小学生が食べたのか。変な所で微分しちゃだめだ。一見じゃわからんが、文脈がアレばわかる。文脈はとっても大事。
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すべての感覚を記憶することは出来ないけれど、それをメモに取ることはできる。
それで仕方なく、僕は耐えている。悔しいけれど精一杯の努力だ。
記憶装置を外部に設けるしか手段がない。
すべての感覚を、記憶しようという時期が小さい頃なんじゃないか。
それを忘れてしまったら、大人になった感じがする。
はじめて嗅いだパンの匂いなんてメモに取ることはできない。
けど、それはすごく大事な感覚だと思う。
そういうものを大事にしていきたい本当は。