マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

モノを媒介しない意思

 

なんだっけ、忘れた。

 

誰かに借りたものと、TSUTAYAで借りたもの。

友達に面白いからと借りた「クールボーダーズ」と「私をスキーに連れてって」(彼はバブル期のスキーの様子とか雰囲気とかが大好きらしい)を見ていない。いわゆる積んでる状態のまま、封すら開けぬまま放置している。俺も見たいという気持ちはある。ただ、なんとなく時間がないからと、時間が空いている時に見ようという気持ちのせいで見ていない。

 

TSUTAYAで借りた4本のDVD がある。早く消費しなければと、今、そのうちの一つを見ている。いや、確かに返却期限があるから先に見ようという気持ちもないわけではないけど、友人に借りたDVD の方が先に借りたものだからそっちを見ればいいじゃないと思う。なのに、TSUTAYA で借りた方を見てしまう。

 

ここに一つの仮説を立てるならば、「自分の欲望の意思が介在しないものを手渡される、もしくは、自分で働きかけていないものを手渡されても、行動の動機には結びつきにくい」のではないだろうか。他人から薦められた映画をよく見ます。Twitter とかFacebook 等で募った面白いと言われた映画をTSUTAYAで借りて見ます。なのに、手渡しで渡されたものに対しては全く食指が動かないのである。そこには「自分で借りた」という意思や責任が介在しない。「延滞料取られないしーま、あとでいいやー」みたいな心や「見たいとは思ったから借りたけど、自分から取りに行ったわけじゃないしー」みたいな心が芽生えているのだろう。でもでも、お金の問題は大きいか。延滞料高いもんねー。

 

ま、自分がやりたいと思って買ったブレッドボードも放置してあるこの部屋の中でこんなことを書いても仕方ないっちゃ仕方ないんだけどね。悲しい。