マレーグマの頭のなか

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なんかかく

 君はどんなプロダクトデザインが好きなのですか?と聞かれたら、工業的なシンプルなものと、職人的なものです。と答えるだろうか。でも、作りたいのは山かなぁ。

 

 日本を代表するプロダクトデザイナーの、柳宗理さんや深澤直人さんの洗練されていてシンプルで、行為に根ざしたデザインは好きだ。東京ミッドタウンでケトルかパンか忘れたけど商品を売っていて、「へぇ、柳宗理、中国人かな。すごいこれは格好いいな。昔ながらのキッチンにも最新のシステムキッチンにも合うな…」と感じたのが5年ほど前だったか。そのときは全く知らなかったけれど、プロダクトに興味を持ち始めるとこの人の名前が必ずチラつく。

 

 柳宗理は製品も好きだけれど、この人の「ワークショップ」という概念がもっと好きだ。サービスの企画を主にしている人間としては、企画段階で没にするという悲しさがある。実際にサービスをやってみて、ユーザの意見を吸収しながら改良を重ねてくというアジャイル開発が最近は流行っているが、沢山のブランチを作って一つの完成形にマージしていく作業が実際に世の中に浸透してきて、柳宗理が言っていた「ワークショップ形式」がハードだけでなく、ソフトでも可能だということが証明されている。

 

 余談だが、ジョナサン・アイヴは嫌いじゃないけど、なんか違うような気がする。

 

 しかし、僕はこういう誰かが作ったもので好きなものもあるのだけれど、実際に好きな製品は「産業革命後に誰かが作ったシンプルで派手なプラスチック製のコップ」という概念的な製品が好きだ。”誰かが作ったけれども、誰が作ったのかわからない”製品が好きだ。誰かの工夫が見え隠れするものよりも、”実際に人々に使われる工程で付け加えられたり、削除されて洗練された製品”から最も強いパワーを感じる。産業革命直後はそういったものしかつくることが難しかった。その頃から変わらない商品はそれまでもずっと使われ続けたものだ。

 

 とはいえ、では「職人的なもの」とは何かというと、大学時代にアメリカ南部に旅行に行った時に出会った家の柵だ。こんな例えではわからないと思うが、とても複雑でうねりにうねっていて、職人の魂が込められているのだ。写真でもあればいいのだが、あいにく持ち合わせていない。

 

 それらは1800年代に作られたらしい。産業革命後にシンプルな物が安価で作ることができるようになってから、職人たちは立場を追いやられてしまった。彼らが自分たちの価値はなんだろうと考えた結果、蒸気機関を使った機械では作ることの出来ない複雑な模様を彫ったりした細工品だった。日本の瓦の四隅や神社の木鼻(屋根の下の部分の細工を施してある場所)などを想像してもらえると理解しやすいかもしれない。それらが街全体に広がっている。

 

 その二つの「工業的」であり「職人的」であるものを僕は作りたい。最終的に作りたいものは富士山である。山は自然のものだ。自然のものは自然と雨や風で風化し、形作られる。人間が手を加えること無く洗練されてきた。また、富士山はデカイ。それだけで、人間くらいの大きさでも誤差になる。大きければ大きいほど誤差が生まれる、それは計算だけではだめな職人的な部分が出てくる。そんなことを、実家に帰るために新幹線の8号車4のE席に座って富士山を眺めながら思った。作るならデカイほうがいいだろ。

 

 自然には勝てないだろうが、作りたい。山と呼ばれるものを作りたい。