マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

20190403

今年はカープが弱い。

まだ4試合しかしてないが、1勝3敗で単独最下位になった。1000日ぶりとからしい。あーなんか懐かしい感じしてきた。こういうカープ。これもカープだ。ここ3年までの強いカープも楽しかったけど、こういう勝ちきれない試合ばかり負けてしまうのもカープだった。新井が抜け、丸が抜け、ジャクソンが抜け。主力や優勝した3年に活躍した選手が軒並みいなくなってしまったけど、昔からカープはそういうチームだったし、若い選手に期待して応援をしていくのが伝統だ。このまま弱くなってしまっても、首都圏のチケットが前よりも取りやすくなったりしないかな?と期待するくらいで、僕のような25年カープを応援している人間からしてみれば、これも楽しみなのだ。ここからまた強くなってほしい。そして、昔の丸のように新しい選手が出てきて僕らをワクワクさせてほしい。今年は巨人からやってきた長野が良い感じだ。知ってるベテランが来ることなんてほとんどないから、面白い。昨日もホームラン打ったし。あんな打球でスタンドまでいくもんなんだね。性格もナイスガイだし、いい選手だ。何事も変わらないことが、一番面白くない。負けたって、優勝を逃したって、最下位になってしまってもいいじゃない。今年の野球も、これからのカープも楽しみだなぁ。

新しい元号

 

 今日は新元号が発表される日だった。フェイクニュースも当たり前のように不必要にデリバリーされるようになって、そろそろエイプリルフールネタなんてのも不必要に感じてきて、企業のネタもどうでもよくなったここ数年間とは違い、真に新しいものに出会えるとワクワクしていた。

 

 月曜日は定時の10時よりゆっくりと家を出ると決めていた。日差しが春らしい気持ちの良い日だった。11時頃に会社のデスクに着いて、いつもと変わらず、今日やることをメモ帳に書き連ねた。11:30から始まる記者会見をインスタライブとYouTubeNHKのネット放送の3画面で確認する。どれが遅延が少ないか。なんだかんだインスタだったので、インスタを見つつNHKの音声を聴いていた。会見は少し遅れていた。

 

 「令和」の二文字がシンプルな額縁に入っていた。最初は「令」の字が読めなかったが、菅官房長官の「れいわ」の声が聞き取れて分かった。音を聞いた瞬間に「これは良い」と確信した。明るい未来が感じられる、美しい響きだと。

 Twitterでどなたかが呟いていたが「ただの文字が連なって、意味を成して、言葉になっていった瞬間が見れた」と。全く同じ感情を抱いた。明治時代の賢者たちが、外来語を日本語に直したときに新たな言葉を次々に生み出していった反面、平成の時代では何もかもをカタカナ語で表記している。もう二度と新しい漢字で作られた熟語は生まれないと悲しく思っていたが、ここに新しい言葉が生まれた。そして、一瞬のうちに国民だけじゃなく全世界の人々にも広まっていった。言葉のパワーを存分に感じた。

 

 ここ100年強は天皇陛下が存命中は元号は変えないと決められていた。それまでは飢饉や天災があるたびに変えていたというが、意外にも「令和」で248番目らしい。大化の改新が645年だから、1400年も大事にしてきた元号がたった248個とは逆にスゴい。

 天皇陛下が亡くなってから決めてしまうと、悲しい雰囲気が世の中を包んでしまうから、この明るい雰囲気を持つ言葉を出しにくくなってしまったかもしれない。このお祭り騒ぎもなかったかもしれない。そう思うと、今上天皇は世の中を思った選択をしてくださったと感じる。

 

 この「令和」が使われるのがもう30日切ったと考えると、楽しみで仕方ない。僕は既にかなり気に入ってしまった。とても良い時代になってほしいし、できるなら僕もその良い時代に加担したいと思う。頑張るぞ。

20190313

 顔は男女関係なく注目してしまうが、髪の毛は女性の場合、特に注視してしまう。ツヤだ。昔、高級ヘアケア商品を仕事で扱っていたことが理由としてあるのかもしれないが、髪がまとまっていて、艷やかな人は注視してしまう。並の努力じゃねぇ。

 髪がキレイな人はきっとナチュラルボーンではない。この四季とはいえど、冬はほどほどに寒く、夏は殺人的に暑い日本では内なる力から艶のある髪は難しいのではなかろうか。人工的な薬品を使わねば、あの艶は維持できまい。つまり、とても金がかかる。特に高級なやつ。めっちゃ効くやつ。

 したがって、髪に艶のあるご婦人は金を持っている。金を持っていない人は、髪に気を使うことなんてできない。現に僕は極貧生活を強いられているので、髪に気を使っていられる暇も髪もなくなってきた。悲しい。会社ではずっと帽子を被っている。そんなことはどうでもいい。彼女らは金銭的な余裕がある。

 金銭的な余裕があるならば、生活の余裕もある。以上からして、髪のツヤは心の余裕から生まれるものであることが判明した。つまり僕は金のある人に注視しているということか。悲しいね。

 

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こないだランチを上司と一緒に摂った。年齢の話になり、未来の話になった。

僕は意外と未来に対して期待しているんだなと気付いた。ただし、テクノロジーに限るが。ここ数年でPS4Nintendo Switchを買ったり、PSVRや新宿のVR ZONEなど最先端のゲーム分野のテクノロジーに触れる機会が多くあった。そこで毎回心躍らされる。新しい表現方法や知覚を与えられることの喜びを得ている。昔は50歳くらいで死んでもいいかなって思ったけど、少なくともシンギュラリティが起こると言われる2045年くらいまで生きたらもっと面白いゲームや体験できそうだなって。早くどこでもドアが出来て、空間と時間の制約がなくなればいいのにね。

 

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打ち合わせをしていて、嫌な大人っていると思う。何かを言ってるようで言ってないとか、議論を混ぜっ返すだけ混ぜっ返してケツを拭かないとか。そういう大人にはなりたくねぇという一心で、毎回こいつにはなりたくねぇって人の額にバーチャル焼印を押して反面教師にしている。

しかし、昨日の打ち合わせではそれになりかけていて、一瞬なったけど我に返って我慢して押し黙った。まだ留まることで自分の軸があることに喜びと、その嫌な大人に一歩半くらい踏み出してしまった悲しさが打ち合わせ終わりに襲いかかった。

打ち合わせの覚書

 

打ち合わせには少なくとも二種類はある。

- 発表

- ブレスト

おそらくは、この2つ。

 

発表は見たことのない資料を、見せられてプレゼンを行ってフィードバックを返すなり、許可を得るなりするための打ち合わせ。ほとんどの場合で発表側と聴衆側に分かれる。パワーバランスとしては聴衆側に上司や役員、クライアントが並ぶ。

もう一方のブレストは、既知の資料や設定を基づいて、新しいアイデアの発見や意識のすり合わせを複数人で行うこと。ほとんどの場合で、各関係者は横一列、対等の関係で行われる。

 

この2つの違いを気付かないと、プロジェクトの進行に細かい遅れが出て、結果企画フェーズで遅れがでがちである。ブレストの方が圧倒的にやる回数が多いのに、資料を事前に配らずに当日そのタイミングで初めて資料を共有することが多々あるからだ。初めてもらった資料に対して、数分で答えやアイデアを出すのは、ただの大喜利でしかない。根拠に乏しいアイデア・ただの思いつきである。

なので、若い人に対しては予めこの2つの違いを理解してもらって、どちらの打ち合わせなのかを判断し、準備をしてもらうことにしている。頼んだで。

何を相手に期待するかを自己責任としたい

 

 何故かこの時期に「期待」について考えることになってしまうようだ。まだ三年目ではあるけど、不思議だ。

 季節的なものなのだろうか。なんJ民の言う「なんか雨がよく降る時期ってあるよな」という世紀の発見と同じく、これも俺にとっては発見だがみんなにとっては既知の出来事なのかもしれないが。「なんか期待について考える時期ってあるよな」という宣言をここにしておきたい。

 

 今回なぜまた期待について考えたのかといえば、会田誠の講演会でこれは環境型セクハラどうのこうののニュースを見たから。

 あとズイショさんの記事を読んだ。

 本人はブコメで「ネタバレする義務が発生するのはつまらない」と仰っていて、まぁ分かるわと思った。なお本文は各種ちんこを叫ぶところしか読んでいない。アルマジロのちんこは尖ってると僕も思う。

 

 結局のところ、大学や会田誠に期待するところはなんなのさという話では無いだろうか。僕ならば会田誠の講演には、エログロの話と制作の交わりを聞きに行くところだと少なくとも思う。彼からそれを差っ引いたときに残るものが居酒屋でおっさんから聞く生徒に向けたハラスメントの話(あくまで想像です)くらいしか無さそうだし。

 この女性はおそらく会田誠ではなく大学側に期待をしたのだろう。大学の社会人講座だから全方向に考慮した何かを出してくれるだろうと。会田誠を知らずに。そこのギャップが大きかったが故に起こった事故だと思う。

 環境が何かを規定していると期待していた。現在の新宿で始まる物語は必ずバスタ新宿で出会いと別れが生まれるとか、渋谷から始まる物語は若者からスタートするだのそういうドラマツルギー的な因子がある。CLAMPのマンガだったら東京タワーが出てきてそこで始まり最終決戦が行われるよねと。もしもそこにギャップがあったら、物語として期待を超えることもある。が、逆に物語に破綻が生まれることもあり、それは内容次第ではある。

 場が物語を規定すると思いきや、その場の人が物語を規定したという、最初の期待とは違った。セクハラしてもいい場があるとは言わんけど、どこに力場が発生するかを見過ごしていた彼女にも落ち度はあるわけで、大学側が丸々背負い込む話では無くあってくれというか言論や表現の場として大学が存在してほしい。大学が会田誠を招聘するなってこともおかしな話だし。選ぶ側がちゃんと選び、その上で何かハラスメントやおかしいことがあったら大学ではなく、その講師を訴えるべきだと思うんだよなぁ。江頭2:50を社会人講座に呼んだらどうなるんだろう。

 

 期待のベクトルが違っていた場合に、大きく反対方向に振れることが多々あると思う。100の期待を裏切られたときに100*(-1)=-100という振れ幅。やはり相手に期待した方が悪いと僕は思う。人はそれでも期待をし続けてしまう。そしてまた、今回の件で、どこの力場が発生するのかを見誤ると期待は簡単に裏切ってくることも分かった。

 どこに期待をし、何に期待をし、自分に期待をして、何が返ってくるのかをコントロールしないと、自分を傷つけてしまう。