マレーグマの頭のなか

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読書感想文:出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと

 「出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと」という本を会社の人に貸してもらったので読んだ。「愛のままにわがままにぼくは君だけを傷つけない」みたいに長いタイトルの本だ。

 内容は主人公で作者の菜々子さんがタイトル通りのことをするエッセイ風恋愛私小説だ。こんな風にタイトルで中身が8割くらい分かりそうなものじゃないと売れない世の中になってるのかな?と思った。いきなり話は変わるけど、SpotifyApple Musicのような音楽ストリーミングサービスが流行ったことによって、今世界中で新曲のタイトルが短くなっているそうだ。それはアプリ内でパッと見て読み切れる長さのタイトルでなければタップしてくれないからだそうだ。本屋を回る経験は昔より少なくなったとはいえ、面白そうな本を探すことは未だにしていて、ある種タイトルでシナリオが完結していると読みやすいと感じるんだろう。遠藤周作の「海と毒薬」なんて海も毒薬も出てきた覚えがないけど、Wikipedia曰く『遠藤が九州大学病院の建物に見舞い客を装って潜り込んだ際、屋上で手すりにもたれて雨にけぶる町と海とを見つめ、「海と毒薬」という題がうかんだという』と言ったらしい。そんなのタイトルで内容判断できないよふえーんってなる人が続出しそうだし、このタイトルは長くしちゃってもいいから内容が分かるようにしましょう法はまぁしゃあない気がしてきた。

 この本の主題は、① ネット時代のコミュニケーション ② スキルセットは活きること ③ 僕らが拘泥している ”何か” からの解放だと感じた。とはいえ、特に目新しいものでもない。久々に小説なるものを読んだというか流し見した。ただまぁ具体的な本の名前が数十冊登場しているので、気になる本が最近見つからないみたいな人にとっては向いているのかもしれない。

タラコとウニとイカと俺と元カノ

 吉祥寺のスパ吉の「タラコとウニとイカ」のスパゲッティが好きで、いつも注文していた。およそ9年前、当時付き合っていた彼女が三鷹から東村山へ引っ越すまでのおよそ二年間、僕は調布から出る吉祥寺行きのバスに乗り、駅前で待ち合わせをして動物園デートをしたり、その後にスパ吉に行ったりと思い出も多い。ただ、今となっては吉祥寺に行くことは少ない。その頃からの付き合いの美容室に行くことくらいで、既に阿佐ヶ谷や高円寺に行くための乗換駅となっている。それでもたまの気分で吉祥寺に寄った際はスパ吉の前の行列を確認し、想像より人が並んでいなければ食べることにしている。そんな「タラコとウニとイカ」を、先日、現住所からたった十分のところで食べられることを知った。それはたまたま寄ったスパゲッティ屋さんで、この幼稚園児でも分かるスパゲッティの名前を見た瞬間、注文が決まった。味変のためのレモンが傍らに無いこと以外は見た目も匂いもスパ吉のそれそのものだった。スプーンとフォークで掬って味を確かめると、まさに望んだ通りの味。思わず彼女にも一口食べてみてと促した。わざわざ食べさせて「美味しいよね」と共感を求める行為はなんなのだろうか。ちらりと浮かぶハタチの頃の元カノの顔。ヴェルタース・オリジナルのおじいさんが孫に分け与える気持ちがこれなのか。特別な気持ちか。愛情か。愛憎か。結婚に向けて粛々と準備中の今、それでも昔の彼女との思い出も自分の一つなんだと、思う他はなかった。

ミスチルを聞こう

Mr.Children の楽曲がSpotifyで聞けるようになった。これから改行もなくダラダラとMr.Childrenことミスチルとの人生における関わりを書いていこうと思う。多分読んでも僕以外盛り上がることはなかろう。おそらくミスチルとの出会いは姉が録音していた「深海」のカセットテープ。姉の手書きで丁寧に曲名が書かれていた。家に無かったが、サイのジャケットのアルバムだけはよく覚えている。少し怖かった。あ、そうそう10歳頃にモンスターファームで「マジン」のレアモンである「ガトリングブロー」を出すために「マシンガンをぶっ放せ」というCDを最寄りのレンタルCDショップで借りた記憶がある。ちなみにその時は返却を忘れていて親にこっぴどく叱られた。延滞料という概念を知った。それから数年経って、桜井さんが何か倒れてから復帰した曲「Any」を兄が借りてきた。何か内省的で少し悲しい曲と若い僕は感じていた。そのころにはMDが家にあったから多分僕は中学3年生だろう。SHARPの、メタルカラーに少しハイライトカラーとして赤が使われているMD再生機器だ。めちゃくちゃ気に入っていた。こっそり学校に持っていったりして、部活を終えて帰る下校の時間に音楽が溢れていた。数年後にiPod nanoに取って代わられるが、未だにその本体は家に飾ってある。高校に上がって、友人が持っているCDを借りたりしてBUMP OF CHICKENASIAN KUNG-FU GENERATIONを知った。MDで擦り切れるほど聞いた。高校二年生くらいだろうかMDから前述のiPod nanoを買った。正確には自分で金を出したわけではなく、多分誕生日に親から買ってもらった。白いイヤホンに憧れた。あの背面の鏡面仕上げに負けないほど目を輝かせていた。書きながら、購入した家電量販店から自宅へ帰るときのことを鮮明に思い出した。そうだ、暑かったからやっぱり誕生日だ。そういえば、確かにAppleは梱包や包装に気を使っていた。玉手箱を開けるときの浦島太郎の気持ち。父が運転する車の後部座席に座って、梱包を解いて、Appleの真っ白なシールを見て「どこに貼るねん」と突っ込んだ。iPod nano本体よりよっぽど気になった。10年使っているアルミのゴミ箱に貼った。その頃アルバム「I♥U」を出していた。友人にお金を出して、焼いたCD-Rを貰った。その頃はWinMXのようなP2Pが大流行していた。今だから気付けるが、そのCD-Rの中身はきっとそれからダウンロードされたものだろう。CD貸してって言ったのにCD-Rを金で売ってくるなんておかしいもんな。しかし、そのCD-Rから取り込んだミスチルの曲も死ぬほど聞いた。ちょうどお小遣いで自由に使えるお金も毎月5000円くらいに増え、たまにカラオケに行くような余裕ができたからだ。ありがとう父さん母さん。その頃は声も低く、バンプミスチルも歌えなかった。悔しかったので自室にこもって布団を被って歌う練習をしていた。そのおかげでか、今は高い声も出る。ヒトカラが好きなのはその経験があってのことかもしれない。ちなみにうるさいから黙って寝ろと親に何度も叱られた。「FAKE」も買ったな、もうセンター試験直前とか直後そういう寒い時期だった。柴咲コウ主演のどろろのタイアップ曲だったが、手塚治虫どろろが好きだったので何故かそこは頑なに許せなかった。大学に入ってからはバンドやHIPHOPにハマっていったので、ミスチルのような大衆のためのポピュラーミュージックはあまり聞かなくなっていった。僕の記憶のミスチル像は18歳の次は、いつの間にか30歳手前になっていた。なんかくだらないことばかりで、告白の前に勇気をもらうために聞いた!とかバスケの試合の前に気合入れるために聞いた!みたいなドラマチックなものは一切無かったけど、いろんなことを思い出した。

20180508

 何か書かなくてはいけない。この焦燥感は、現実の耐え難い無生産の状態と時間が過ぎ去っていく謂わば大学生の夏休みを満喫しながらも銀行口座には毎月お金が一定額振り込まれているという奇妙な状態から抜け出したいということなのだろう。しかし書きたいことも、書くべきこともない。ただ頭に浮かぶ文字を、指を通じてキーをタイプしている。この状態はきっと白昼夢やドラッグに依存している状態に近い。24時間フワフワしている。朝起きて、意味もわからずに出勤し、夜寝る前になって初めて今日が終わることを知る。何かを書く、この無駄な足掻きが何の解決にもならないことは知っている。沼は足掻けば足掻くほどに深く沈み込んでいく。この沼から抜け出す術を知っている僕はそのカードを切らないただのマヌケだ。

ハイライトはどこにある

 最近は家に帰るとカープの野球の続きを観戦するか、友人がネットに垂れ流しているゲーム実況を眺めながら過ごすかしている。カープは調子悪いながらも順調に勝ち星を加え、首位をひた走っている。なのでそこまで言うこともない。日本語話者にとって大事なものは後に述べることなのだ。そう、ゲーム実況を見ているということだ。

 

 Twitchというゲーム配信プラットフォームがある。プロゲーマーもそこで配信していて、毎朝毎晩世界中の人たちが自分のプレイを見せながら、投げ銭を得て収益をあげている。僕の友人は昔から趣味で酒を飲みながらゲーム配信をしている30歳のおじ、おにいさんだ。何千人も視聴者がいるプロゲーマーと違って、50人にも満たない昔からの視聴者に向けて酒に酔いながら、快活な笑い声を出しながらゲームをしている。彼はPlayer Unknown’s Battle Grounds(PUBG)というゲームをしている。オンライン上でログインしている100人を一つのフィールドに集め、そこら辺に落ちている武器を拾って殺し合いし、最後の一人まで生き残るゲームだ。物騒だなと思う方もいらっしゃると思うけれど、そこはゲームなので。

 

 僕はPUBGの生放送は見る。しかし、PUBGの動画は見ない。そこには明らかにゲーム的な面白さが差っ引かれている気がするからだ。どんなにマヌケな負け方をしても、それがコンテンツになる。

放送を切り取られたこの動画は何回見ても笑える。しかし、見事に、情けなく負けている。下手なことがコンテンツになる。下手が面白いことは永井先生ピアキャス時代から変わってない。このくだらない時間を一緒に過ごした事実が余計にその面白さを加速させている。

 一方、動画は何かしらの結末が必要だ。そして、その結果としては、クリアの概念があるゲーム動画や勝利した動画、またはいわゆる神業の動画がほとんどだ。能動的に見に行ったものに対しては「あー、この動画を見てよかった」「メッセージをちゃんと受け取ったぞ、明日から頑張ろう」みたいな高揚感がないと満足感を得られないからだろうか。動画であれば、下手な人が上手くなっていく様子を見せる必要があるが、生放送では一生下手くそでも問題ないのだ。むしろそれが求められる場合も多くあるだろう。

 僕にとっては生放送は結果はオマケで、過程が大事なのだ。結果が良ければもちろん良いが、結果が負けていても、過程がハチャメチャだったりするだけで満足感がある。翻って野球はどうなのか、野球はペナントレース優勝に向けて駆け上がっていく必要があるので、絶対に結果が伴っていないとダメなのだ。20対19で負けてしまったら、どんな打ち合いをして、どんなファインプレーを連発しても意味がない。負けた翌日のスポーツニュースやらまとめサイトは見ないようになってしまう。勝ったらハイライトでも面白い。もちろん放送を見て、過程を楽しむのもいいが、負けてもOKとはならない。勝つことだけが高揚感に直結しているからだ。勝つこと以外に許されていない。

 

 ”生放送的” と ”動画的” で求められている事柄が違うとすれば、この2つの差に気づかずにミスを犯している場面がたくさんある気がしている。誰しも持つ虚栄心から自分を大きく見せたがるが、そうじゃない生放送的な、何かするだけでいい場面が多くある。結論がないこのブログは自分の中では生放送的な部分が強くあったが、ひょっとしたら動画的に結論を欲している人が見に来てくれているかもしれないと思うと、申し訳なく思う。