マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

ありがたさ

 お寺や神社には、ありがたいなぁという気持ちを持ってお参りする。昼時に会社の周りを何をするでもなくふらふらしていたら、まだ新しく木目がしっかり見える木を使った寺社に出会った。その寺社が由緒正しい系統であったとしても、ふらっと入ってお賽銭を投げ込む気持ちにはならなかった。

 通り過ぎたあと、この気持ちを整理すると、やはり新しくできあがったばかりであろう外観がその大きな要因となっていることは明らかだった。そういえば、こんな出来事を思い出す。およそ30年前に造成された実家の団地では、僕が高校生に上がる頃に神社ができた。当時スレていた僕は「御神体すら無いのに何が神社じゃい」と見向きもしなかった。その団地の住民だけが投げ入れた小銭がうっすら入っている賽銭箱を、何の効力も持たない募金箱か何かとして自分の価値観の中では置いていた。

 昭和最後の年、僕が生まれた時点ではほぼ全ての神社は自分よりも古いものだ。ほぼ全ての鳥居はくすんだ朱色をして、縦にヒビが入っているのが当たり前はずだった。きっと伊勢神宮が近所にあったらまた違った価値観が作られたのだろうが、寺社仏閣はたいてい年月の経った焦げ茶色の木材で作られてたものが、それだった。僕が求める「ありがたさ」はおそらく長い年月で積み重ねられた神秘性だ。

 ここからは勝手な想像でしかないけど、平安時代鎌倉時代など飢饉とかでバンバン寺社仏閣を立ててたときはきっと新しい神社だろうがなんでもすがるために人々は参拝していたはずだ。昔の寺社は割りと派手だったということも聞いたことがある。煌々とした朱色で塗られた鳥居に、金ピカの大仏や赤青黄色で飾られた建物がメインだったはず。となると、当時の人々の「ありがたさ」は派手さやお祭りのような賑やかさに潜む神秘性だろう。

 こうやって考えてみると、真逆に見える僕の価値観の「ありがたさ」と昔の人々の価値観の「ありがたさ」は指標は違えど一つ共通点がある。それは日常から逸脱した非日常に対して「ありがたさ」を感じるという点だ。現在では、特に今住んでいる東京では新しいものばかりで、昭和にできた建物の方が珍しかったりするし、あばら屋すら見ることは少ない。その平熱との差が「ありがたさ」に繋がるのだろう。やはり「有り難い」と書いて「ありがたい」と呼ぶように、普段に無いことを我々はそう呼ぶのだった…。そういうことにしといてください。

リビング ザ ゲームを観た

 

昨今世間を賑わせているe-Sports。その界隈の中でも、格闘ゲーム界の一部を切り取ったドキュメンタリー。20年以上業界を引っ張ってきた梅原大吾と先日発表された団体のJeSUのライセンスを唯一受け取らなかったももちに焦点を当てていた。いくつか気になったテーマに沿って感想を書く。

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 格ゲーマーの練習

 ゲームだけじゃなく、この世の全ての競技はミスをした方が負けるというのが理である。また、全ての競技は勝つ確率が高いことを繰り返し続けることが勝つ秘訣である。だから無意識下で神経の伝達を行うために反復練習をし続ける。1/60秒という単位で人間が同じことをし続けることはほぼ不可能だが、それに近付けることはできる。物語の主役はだいたいクライマックスで今までした練習が裏切ることなく成功する。ドキュメンタリー映画の怖いところは、書かれた筋書きが事実だというところだ。

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 人生を変えるゲーム

 思わず涙が出たシーンがあった。それは上でも出たウメハラに ”伝説の一戦” で負けた側のジャスティン・ウォンのヒストリーを振り返ったとき。15歳で初優勝した賞金1000ドルで新しいゲームや服を買ったりした。そして、おばあちゃんにお返しをした、と。貧しい家庭で育ってしつけも厳しかったジャスティンに毎週$2与え、そのお金を握りしめてゲーセンに行っていたらしい。そのお小遣いのおかげで今のジャスティンがあるんだと思ったときに泣いてしまった。こういうのに弱い。

 また、この映画を観たらきっとあなたはゲーマービーを好きになると思う。台湾の好青年の彼は複雑な家庭環境で育ち、深夜になっても朝方になっても片親の父親は帰ってこない。寂しくなったら24時間開いていたゲームセンターに行ってゲームをずっとしていたそうだ。19歳のときに父親が死んだとき、どうしたらいいか分からなくていつものゲームセンターのいつもの場所にずっと座っていたという。そして、今はアジアのEVOを開くために活動しているという。こういうのにも弱い。

 ゲームは一日一時間の娯楽でしかなかった僕にとって、彼らとは決して相容れない環境だろう。しかし、ゲームは彼らのような人たちを救うことができたのだ。

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 プロゲーマーって何をしたらプロゲーマーになるのか。

 一般的にはスポンサー契約をすることで、プロゲーマーと名乗る場面が多い。友人のカードゲーマーは、スポンサー契約してからプロを名乗っていた。我々はプロに何を求めているのか。僕は無類のカープファンだが、勝つことが最大の喜びだ。では、果たしてプロゲーマーも同じなのか。その疑問に対して「勝つこと」がプロゲーマーに求められていると述べるももちと、「記憶に残る試合をすること」でプロゲーマーとして認められたと述べたウメハラ。僕らは「レッツゴージャスティーン!」のEVO2003のアレ、この ”伝説の一戦” はおそらく格ゲーの面白さを語る時に必ず使われるだろう。ファンとして勝つことを最大の喜びとしながらも、大きな舞台で心に刻まれる試合を僕らはきっと心の奥底、本能として求めているのだろう。イチロー羽生結弦羽生善治などその道のプロには確かにそれがある。魅せるプレイをして、かっこいい、面白そうだなと思わせて競技人口を増やす。それに応えられる人が真のプロなのかもしれない。

 

 まぁとにかく良い映画だった。ドキュメンタリー映画は密着取材した映像を編集して並べているが、起きたという事実だけは必ず歴史とリンクしていることが最大の魅力だ。先週末の獣道は、この映画の地続きだということが良く分かるので、そちらもチェックしてほしい。

 

www.living-the-game.com

www.twitch.tv

読書感想文:暇と退屈の倫理学

 

 今年1月に買って、二、三日程度で250ページほど読んでからすぐインフルエンザに罹ったり、そのまま長期休暇に入って旅行に行ってしまったので結果的に読み切るまで2ヶ月ほど掛かってしまった。この本と出会ったのはいつだったか、会社のランチを終え、青山ブックセンターに立ち寄ったときに一際赤い表紙に目が行った。そして手にとって、題字を読み、これはきっといつか買わなくてはいけないだろうと思ったのを覚えている。

 

 「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」をテーマに書かれている。先日の「メディアアート鑑賞 覚書」を書き終えて数時間後に残り100ページほどを、読み切った。結論以外ほとんど読んでいるとはいえ、自分に驚いたことがある。というのも、結論に先日の記事と同じようなことが書いてあった。この本の結論まで内容が、きちんと自分の体に知識となって根づいていたのだ。退屈と向き合うためには、世界と向き合って、自分とも向き合う必要がある。この時差があったことは大きなインパクトを与えた。決してこの本は薬じゃない。処方箋に近いかも。この処方箋に従って、過ごしてみよう。

 

 人生は、暇で、退屈である。熱中できるものがない、覚悟がない、やりたいことはない。与えられた積み木で遊んでいれば、ある一定のルーティンをかまして満足はするだろう。この退屈感は慢性的で、日本に蔓延る風土病か何かだと思っていた。誰しもが退屈と興奮の矛盾からは逃げられない。これが分かっただけでも十分だった。

 消費をしない。マーケティングを生業としている会社に勤めている身からすれば、自分がやっていることと退屈から抜け出すためにやるべきことは矛盾しているかもしれない。情報を不可し、その情報を享受させ、その差/記号に金を払ってもらう。本当はそんなもの、必要ないのに。記号化されたものは際限なく湧き出す。我々は食事ではなく、情報を食べている。そんな漫画の一コマは決して嘘ではない。自分を信じられなければ、誰かが不可した情報という添加物で味を感じるしかない。この事実に気付き、日々困惑しつつ、どうしようもできない自分に苛立って焦燥感を浴びていたのかもしれない。

 

 物語の主人公は何かにいつもと違うところに気付かなければ、物語が始まらない。彼らは何にでも刺激を受け、感じている。彼らは退屈することがない。退屈しても、すぐにまた新しい何かを見つけたり、何かに囲まれたり、ひょっとすると巻き込まれたりするかもしれない。僕らもそれをすればいいだけだった。結論は思ったよりも普通だったり、当たり前のところに着地しているかもしれない。結果的に、自分が取ろうとしているスタンスが間違っていないという証左になってくれただけでこの本は価値のある物として本棚に収まる。

 

 この本を読めない人は、序章と結論だけ読んでみればいいと思う。大きくはそこに文字として書いてあることが全てだ。しかし、結論を読めば、この本を読む過程における意味が大事であって、文字として書いてあるその言葉には危うい語弊が生まれるかもしれない。だから、この本を読もう。

 

 

メディアアート鑑賞 覚書

僕はファインアートもメディアアートも好きで、年に何度かは美術館や博物館に行ったり個展やギャラリーに出向く程度には情報を摂取している。3月11日にいろんな展示が終わるにあたって、ICCに足を運んできた。メディアアートは大きく二分して、コンセプチュアルアートと体験型アートがあるように思う。

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どちらにも大きなコンセプトや目論見があるとしても、体験型アートは実際にやってみて楽しいから誰でもとっつきやすい。体を動かしたり、音を聞いたり、音と連動する光が点滅する様を見たり。一方コンセプチュアルアートの方は分かりづらい。ある一定の動画が流れたり、大きな何かがそこにおいてあったり。

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その分かりづらさというのは、作者が提示するコンセプトに対して、自分がもつ価値観を照らし合わせたときに合致するかしないかの幅が大きいからのように感じる。合致すればそれは素晴らしい作品のように思えるし、そうでなければよく分からない作品がそこにあるように感じてしまう。例えば日本では、銃乱射事件のような事件は欧米に比べると非常に少ないため、銃をモチーフにした作品に対してはセンセーショナルな映像だな!くらいにしか思えず「よくわからなかった」という感想が出てきやすそうである。

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ファインアートを楽しむためには、その当時の風俗や歴史を知っていればより楽しむことができる。つまり最近のアートを楽しむためには、現代の世の中で何が行われているか知る必要がある。世界でどういうことが問題になっているか。難民問題、核兵器、温暖化、独立問題 etc. いろんなことを知ることで自分が知らないところでどういう価値観が育まれているのか、どういうものに危機感を覚えているのかを共有する。シンパシーではなく、エンパシーをする。そうすれば、このアートで伝えたいものが分かる。

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どのような技術で作られているのか、どういうアルゴリズムで作られているのかを想像して体験をすると面白い。言語レベルの話ではなく、どこで動きを取得して、どういう変換の元にこれがアウトプットされてされているのかを想像する。それはキャプションには書いてないことがほとんどなので、あとでどこかのインタビューで書かれていることと合致したら非常に嬉しくなる。意外と自分でも作れるんじゃないかとか思ったりする。現実は作れないのが辛いところだ。

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ファインアートならまだしも、メディアアートで先にキャプションを見てしまうのは非常にもったいない。見て、聞いて、触って作者のコンセプトや目論見を想像する。その想像と答え合わせをして、何故この人がそのコンセプトを据え置いたのか、自分が何故そう思ったのか、その源泉はどこにあるかを考えるのが面白い。キャプションを見ず、まずは自分の感じたそのまま信じてみることがアートと向き合うことなんじゃないかと思う。だってそうはじめに感じたんだから、それは正解の一つなんだよと言っている。

さらに期待を、つづける

同じ情報ソースを見続ける必要がある。新作の何々がいついつに出る。あの人の展示がある。

新しいものに対して、はたまた見たことのないものに対して「面白そう」や「楽しみである」という感情を自らの内面に芽生えさせることが肝要。

実際にそこに行くか行かないかは割りとどっちでもいい。期待をすることが大事だ。

相手に対して期待を持つことは、おそらく自分を強くする。自分が信じられないと、相手も信じられないからだ。相手に期待を裏切られても、自分の強さで跳ね返すことができるからだ。

自分を信じられるようになるには、信じた自分を実現するしかない。朝に二度寝をしないと決めたらそれをする、そうしたらば、自分をもっと信じられる。もしも二度寝してしまったら、もうちょっと遅く起きて、二度寝できないようにすればいい。できる範囲を広げることでしか自分を信じられる、手の届く範囲は広がらない。

相手の手の届く範囲と自分の手の届く範囲が重なっていたら、相手に期待すればいい。そうすれば、もしもどっちかがダメでもお互いで補うことができる。仕事ってそういうもんだったりするな。

自分を見続ける。同じ自分でも少しずつ変わってる。もっともっと期待できる自分を自分の中に作っていこう。

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