マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

相似形を見つけよ

 これは心配なのか、お節介なのか、それとも不愉快になっているのか。自分でも分かっていないのだが、とかくまぁ気になっていることがある。端的に申し上げると、後輩の話がものすごくつまらない、のだ。その形はどんなでも。対面で喋ってても、SNSに投稿するにしても、だ。「うるせーうるせー、お前の話も大して面白くもねぇじゃねぇか。大口叩いてんじゃねーぞ!」とツッコミが入ると、僕も「へぇ、すいやせんでした」と両手と額を床につけ、ただただ平伏するしかないわけだが、それにしてもつまらない事実は変わらないのである。

 

 はて、何が一体つまらないのか。いや、そう感じさせるのか。今読んでる人たちはどれだけつまらないんだと期待値が上がっているかもしれない。つまらなさの期待値は上がれば上がるほどつまらないのか、面白いのか。果たしてどっちなのか気になるところだが、そんなことはどうでもいい。ただ、つまらないのだ。具体的に言えば、

 「こういうニュースがありました!」

 「これ勉強になります!」

 「これ良かったです!」

こんな感じ。えっ、思ったよりつまらなくない?いや、つまらないんだって。期待値が謎に上がりきってしまった故にこういう事故が起こる。それは置いといても、きっと皆に期待する返答があるんだろう。このコミュニケーションのやり方ってば、TwitterでRTしかしない人と同じなんだ。あんたはRSSか何かなのか?それだったら人間RSSじゃなく、静かなシステムの方を使いますよ。

 

 僕は基本的にそういう人はフォローしないし、しがらみの中でフォローしててもミュートしてる。明確に自分の中でコミュニケーションの足切り対象になっている。一方、自分の意見や経験を添えているなら問題ない。何か添えるにしても、全く違う分野から相似関係の現象を引っ張り出してくれる人は稀だけど特にありがたい。ああ、何か見えてきた気がする。おそらく、自分との共通部分の確認作業としてのコミュニケーションはつまらなく感じてしまうのだ。昭和のコミュニケーションである「昨日のテレビ見たー?」から始まるジャブは鬱陶しいのだ。「山、川」の合言葉を示されても我々は味方であるというサインでしかない。そこに安心感と馴れ合いが産まれるだけだ。ご存知の記号と記号を掛け合わせても「あっ、これ知ってる!」と脊髄から信号が走り、一見面白いように感じるだけだ。スムーズに電気信号が走ることで面白いや好きを勘違いしている。そういう風に人間はできている。しかしそうじゃない。自分はあなたが知らないけど面白い(と自分が思っている)ものを持ってますよ、よってらっしゃいみてらっしゃいって流浪の商人がやってきたようなコミュニケーションが僕にとっての ”真” だ。

 

 というかですね、「百聞は一見に如かず」なんですが「百見は一考に如かず」だし、更に「百考は一感に如かず」なわけです。今適当に作りましたけど、言葉にするというのはそういうことです。今見知ったことなんて、1回体感したことの1万分の1倍程度しかない。少し見ただけのものを「面白い」なんて一言で済ませたくないです。それなら自分の知ってる範囲のことと結びつけて話すべきだ。それが真摯な情報への態度だと、僕は思う。ここまでダラダラと愚痴を書いてしまったものの、これは完全に反面教師にするつもりで書いてます、はい。僕のような中途半端に広く、限りなく浅い知識だけの人間は、様々な分野において相似形を見つける能がしかないんです。少しでも多くの物事を繋げて意味のある事象を見出だせればと、僕は思うわけであります。