マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

抱負

 そういえば、1年がそろそろ8%を過ぎ去ろうとしている最中、抱負を決めた。それは、

「なるべく、論文を当たること」

である。抱負は「抱き、負う」という前でも後ろでも重みを感じるといったところだろうか、双子の赤ちゃんのお守りをしているようだ。常に気を配っていないと、どちらもあやすことはできない。さっさと成長して巣立ってくれたらいいのだが。きっとそれは自分の決意が習慣に変わったときだろう。

 この抱負にした理由は、1月の半ばに「広告都市・東京」という本を読んだことに影響している。広告論からメディア論、ひいてはコミュニケーションについて述べている本だ。2002年の著作のはずだが、コミュニケーション論の章で明らかに現在のSNSの形を述べていた。手元に無いのですぐに引用はできないが「やり取りをすることではなく、単純に投げることに意味を持つようになる」ようなことを書いていた。

 当時にもFriendsterとかOrkut等が勃興しはじめていたが、現在のTwitterのようなコミュニケーションの形ではなかったように思う。むしろ、2ちゃんねるが今のTwitterの形に近かった。この15年以上前の著作で、ここまで詳細にコミュニケーションの形に変遷が起こることを述べられていたことに衝撃を受けた。アメリカの論文を読んだりすると、もっと早くから同じことは書かれていたかもしれない。

 しかし、2年前に同じように、各大学で行われていることは世のビジネスレイヤーに出回っているものより数歩先に進んでいると感じていたことを思い出す。当時のニューラル・ネットワークの話を教授から聞いたときに、海外の大学では畳み込みの数がビジネスでやっているものの10倍ほど違うなどと聞いていた。つまり時間は掛かるが精度が全然違うということらしいが。ふと冷静になると自分は理系の単科大学を出ているのだが、そんなことも忘れていたのかと。

 新書やビジネス書のような現在の問題を攻略するための本も大事ではある。しかし、やはり文系理系関係なく、論文のような数歩先のものを摂取しないと場当たり的に対処する方法しか使えなくなることと同時に、数歩先の情報は自分の中で加工しないとうまく使えないので頭を使う必要が出てくる。多分そこが最も大事だと踏んでいる。そこの力を鍛えるためにも、論文に近い著書を今年は摂取しようともがいている。この一年でどう変われるのか、自分でも期待している。三日坊主、三ヶ月坊主、ただの坊主にならなければよいものだが…。