マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

アカネ色に染まれ

 佐藤雅彦の講演会、というか授業に行ってきた。クラウドファンディングサイトと東京藝大が手を組んで研究を加速させるためのプロジェクトをやっていて、その中に佐藤雅彦研究室の映画を作るプロジェクトの支援をした。その支援に対するリターンとして授業を2コマ受けられる権利を得たので、まだ残暑厳しい時季に小躍りになりながら上野まで向かった。佐藤雅彦の大ファンとしては授業聞くことができるなんて一生の思い出だ。

 

 終了後にため息しか出てこなかった。メモ用に買っていった文庫本サイズのキャンパスノートを一冊使い切るくらいにはたくさんの、有用で、心が震える、何度も読み返したいメモを、一心不乱に殴り書いた。家宝が出来上がった。このブログに軽々と書けるような安いものではない。たった3時間の授業で家宝になった108円のノートに書いた教えが、自分の中に浸透しきってから「あぁもうこのノートは自分に必要ない。別の誰かに託したり教えてあげたい」と思ったときにまた書くかもしれない。それが数ヶ月後なのか数年後なのか、はたまた墓まで持っていくのかは今のところ検討もついてないがなるべく早く手放したい。こういう風にして宝物に呪いがかかるんだろう。

 

 いやいや、そんな自慢がしたくて筆を滑らしたわけではなくて。あぁ佐藤雅彦ほどの天才ですら、いや、彼のような作り方をしている人だからこそそうなんだろうなと思ったことがここに一つ。それは「自分の中に面白さそのものは無い」ということだ。彼が明確にそういうことを言っていたわけじゃなくて、僕が授業の中でひしひしと伝わったことの中の一つがこれだった。ただ、面白さの基準というのは自分の中にしかないということも同時に言っていたように思える。

 

 彼はクリエイターである前に蒐集家(コレクター)なのだ。もちろん佐藤雅彦自体は既におもしろいものをたくさん作り続けている第一線のクリエイターなのだけど、彼は自分の周りで起こっている面白い現象を収集し、どうして面白いと感じたのかを分析、言語化、体系化し、それを作り方として昇華させている。非常に理系的なアプローチだと思う。

 

 安い言い方しかできないが、自分の中に何か面白いものがあると勘違いして深掘りしていては一生抜け出せない穴ができている可能性があるなと。そして、イヤホンをして耳を塞いだり、先月月賦を払い終わったiPhoneSEに釘付けになりながら歩いていると、iPhoneのアンテナが拾ってくれる見えないものは見えても、いま目の前にある見えるハズのものに気付かなくなってしまう。世の中の機微に気付かせてくれるアンテナは自分の中にしか無い。更に分析し、言語化しなければ面白いものを消費して終わるだけになってしまう。まずは収集活動を始めよう。

 

 佐藤雅彦も30歳からクリエイター部署になったとおっしゃっていた。彼と違って東大卒でもないし、電通勤務でもないけど、彼が大丈夫だと言ってるなら信用したい。信用するかどうかの判断軸もきっと自分の中にしかないから、まずは自分の判断軸を信用するところが収集のスタートだ。