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マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

穴を掘る vol.2

“なんか、PinterestとかTumblrで自分の好きなものを集めるのって、限界があるというか嗜好の指向性が測れない気がしていて、いや、ある程度の方向性は分かるんだけど、むしろ嫌いなものとか嫌だなって思ったものを集める方が見返しはしないけど、自分の事が分かりそうだなって思った。”

 2014年4月末のツイート。

 指向性の意味が多分本来の意味と違っていて、この場合は「どういうものに食指が動くかという方向のこと」を差していると思われる。「嗜好の指向性」って言いたかっただけじゃろうが!と突っ込みたくなるけど、まぁそこは許したる。各々振り返ってみてどうだろうか。

 「俺の血はこのラーメンのスープでできてる!」って言いながら毎日のように食べてたあそこの美味かったラーメン、もう食べてませんね?引っ越してから行きづらくなっちゃったしな。

 「この曲良すぎw末代まで伝えるべwww」あのミュージシャンの、あのアルバムの、二曲目、もう聞くのもやめましたね?最近またアルバム出したらしいですよ?

 「OP1万回見たwwwwww」と言っていたあのアニメ、中だるみした19話くらいからもう見てませんね?そういえば毎クール好きなキャラを問われたときに変わっている気がしませんか?

 

 そういう風に”好きなもの” は移りゆく。決して嫌いになったわけじゃなく、飽きて “好きなもの” から ”好きだったもの” へ変化していく。それは自然なことで、決して悲しいことじゃない。あの時好きだったな…ポロリ…(涙の溢れる音)とノスタルジックになれるだけ自分の身に浸透したまでのこと。好きなものの指向性は社会の流行などにもなびいてしまうので、現在自分が向かっている方向が流行と共に流されているのか、自分が思っている向きなのかは客観視しないと分からない。現時点では自分への正しい向きがどの方向なのかは定かではない。

 翻って ”嫌いなもの” はどうだろうと考えたとき、それらは大して “好き” または “平気” に転じてはないのではなかろうか。幼稚園のときに嫌いだったピーマンが食べられるようになった!という人は腐るほどいるだろう。”嫌いなもの” は意識をして避ける・克服することはできる。しかし、”嫌いなもの” をまるで花粉症の治療のように、気づかぬうちに摂取し克服することは難しいのだ。それゆえに人間の中には ”嫌いなもの” の情報だけが溜まっていく。人は流動的な好きなもので形作るよりも、固着した嫌いなもので形作ったほうが分かりやすく、その人のカタチが見える…ような気がする…のだ。