マレーグマの頭のなか

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コンプレックス・エンジン

子供の頃の原体験がやりたいことや自然と湧き上がる欲望に密接に関わっている。梅原大吾慶應義塾大学で行われた講演を聞いていて感じた。彼は様々なコンプレックスを抱えている。著書からもそれが読み取れる。世の中ではコンプレックスはその人以外から見ると醜く、良くないものだと捉えられることがほとんどだ。しかし、コンプレックスは忌避すべきものではなく、コンプレックスはものごとを続けるためのエンジンそのものだった。燃料であるガソリンは、そのコンプレックスを刺激する周囲からの影響だ。醜悪な顔貌、貧乏な生活、不勉強だった過去、自らのスキル不足などを他人から感じ取れることがそのままガソリンになる。もっと格好良くなりたい、お金持ちになりたい、頭が良くなりたい、もっとできるようになりたい。僕はそういうところから既にドロップアウトしてしまったのかもしれない。いつからか、欲も怒りもなくなって、ある種の諦観が自分の頭の中の8割以上を占めていたように思う。昔から何をやってもそれなりにできていた。親兄弟や環境は恵まれていた。しかし、それ以上にはなれなかったし、なろうとしなかった。年齢が上がっていくにつれて、自分よりも何かが秀でている人が周りに集まってきた。コンプレックスが刺激されることはなかった。いつか芽生えるはずの反骨心のようなものが欠如しているのかもしれない。高校でバスケ部から逃げたときに削り取られたのかもしれない。身長が低く体重も軽かった自分は何をやっても勝てる気がしない。レギュラーをとれる気がしない。なら美術部にいこう。そういう考えで逃げたと言ってもいい。絵を描くのは楽しかった。しかし美術コースの友人たちは僕よりずっとずっと早いスピードで絵を描くことが上手くなっていく。それでも絵を描くことは楽しかった。僕は金銭的な面から美大を諦めて東京の国立大学に進んだ。あのとき親をなんとか説得して一浪してでも美大受験に行けばよかった。諦観はそこから身についてしまったんだろうか。後悔するような選択はどこにいってもつきまとうと思う。あのとき美大に行く選択をしなければ、ワーキングプアのような生活をしないで済んだかもしれないのにと後悔している僕が平行世界にいるかもしれない。子供の頃になりたかったものはなんだったっけと、振り返ってみても本当にしたいことを思い出せない。理由なしにしたかったことなりたかったことを見つけることが今やるべきことに繋がるのだろうか。何も無いことがコンプレックスとなって、今、エンジンがやっとできあがりつつあるのかもしれない。

 

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