マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

鍵と錠前

 暇なときは毎度キーボードに向かって何かグチャグチャしたものを誰かにぶつけたい。スペインのトマト祭りは赤々としたトマトを投げまくった結果グチャグチャになるけれど、僕が日々している行為はハナからグチャグチャなものを投げつけて僕もこれを読んでるアナタも互いに泥まみれにグチャグチャになろうやという気持ちで書いている。

 

 アプリで解錠するタイプの鍵と錠前がある。登録されたユーザーだけが使えるアプリで、自分のスマホBluetoothで接続され解錠ボタンを押すと連動して鍵が開いたり閉まったりするシンプルなものだ。実際に使ってみると、特に大きな感動がない。多分それは自分が設置したものでもないし、そもそもそうなるように設定されたものだからないだろうか。松屋の券売機はもはや当たり前のものになっていて、使っていても特に感動は生まれない。世の中のシステムは大体ブラックボックスになっているけれど、出力Aから飛び出てくるBがなんであれ、中身を知らないものに感動は生まれない。

 感動は知っていることや共感できることからしか生まれない。ドラマの主人公に何故涙するのか、それは過去の自分と照らし合わせたり、不都合なことが起こったときの悲しさを知っていたり、大事な人が死んだときの悲しさを分かっているからであって、誰しもが涙を流すわけじゃないし、決してそう作られたからではない。

 僕はWebサイトの作り方を知っているから、凄いテクノロジーやデザインが施されているサイトに対して驚きや感心がある。ワインの作り方や売られ方を知っていたら、もっとお店で買ったり飲んだりするワインに対して驚きが生まれるだろう。今の自分が辛く落ち込んでいるのは、何かを知っているけれど何も知らないことに気付いたからなのだろうか。

 本当はもっと驚きが世の中に満ち溢れているはずなのに、自分の無知のせいでそのことに気付けない。気付けないから人生がつまらなく感じる。こういうループに陥っているのかもしれない。何か全く知らない今の自分と違うことを知ることが、今を良くする一歩に繋がるかもしれない。錠前はそこら中にある。しかし、自分が鍵を持っていないことにはその錠前を開けることはできない。