マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

メモ

あまりに出来過ぎた写真はそこで時間が流れているような感覚になる

 

計画を立てないことで自由を感じてきたけれど、それは間違っていたのではないかと最近考えつつある。自由を履き違えたとかそういう意味ではなくて、自分から発する自由は非常に制限されているということに気付いたからだ。欲望のままに動く人に対して、そこはかとなく軽蔑していたが、欲望に呑まれていたのは自分の方だった。当たり前だけど、お金を使うことだけが欲望の対象じゃあない。欲望に対して僕はどうアプローチするべきなのかをもう一度考える必要がある。

 

当たり前のことでしか他人の共感を呼ぶことはできないのではないか。

 

共感という言葉の概念が広がっている気がする。

・他人の意見や感情などをそのとおりだと感じること。また、その気持ち。

・他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。もしくはその感情のこと。

・分かる~!っていう事柄

 

一番下のことってなんだろう。共感というよりも、ただの理解だ。理解ができることと共感は違う。そこに感情のゆらぎがあるかどうかだ。理性を司る言葉が理解で、完成を司るのが共感と言い換えてしまっても良いかもしれない。理解に自分はおらず、共感に自分はいる。