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マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

だれもしらない建築のはなしを観た

雑記

「だれもしらない建築のはなし」をイメージフォーラムで観た。

ぶっちゃけ安藤忠雄しか僕は知らなかった。そののち、レム・コールハースは「S,M,L,XL」という著を知っていたが、作者の名前までは記憶できてなかった。間接的に知っていた。というか建築界では有名な人ばかりを集めていたらしく、まぁ何も知らないずぶの素人がフラッとチラシを見て覗きに行ってはイケない映画だったのかもしれない…。

 元々の上映された映画祭だったかでは、建築の歴史の流れを知っている人にとっては拍手喝采だったらしいが、その歴史を身をもって知らない学生たちにとってはナンノコッチャわからん内容だと取られたこともあるらしく、イメージフォーラムでの上映に向けて少し追加取材と再編集をしていただいたらしい。そのおかげで僕のような無知でも過去にどういうことがあり、どういう流れのもとに、現在の公共建築がなされているのかがすんなりと理解できたと思う。とはいえ、まだ頭の中で整理できておらず答えを出せと言われても出せないのは申し訳ないが。

 

fashionpost.jp

 既に映画を観た人にとって、実は話のあらすじは上記の公開トークショーで書かれている通りだなぁという印象を受けると思う。観た後にこれを読めて非常によかった。理解しやすく説明していただいている。

 

 ここから散文を書いておく。まとまりはないし、結論はない。

 まぁ建築の事は置いといて、僕はWebの人間なので ―とはいえあまり理解は深くないが― Webは建築に較べてまだまだ名実ともに歴史が浅いなぁと思うことがあるが、さらに言えば加えてイデオロギーを持ってWebを作っている人が非常に少ない印象がある。建築は道具でしかないが、それそのもので人々の生活を変えていく性質を持っている。インターネットにおいてそれはあったが、Webサイトにおいてはそれは無いのかもしれないと近頃考えている。ウォークマンは持ち歩きながら音楽が聞けるようになったが、ソフト側は生活を一変させることはなかったというような。とはいえ、Googleなどで期待するページの探し方、検索の方法は変わったので一概には言えないがそういうシフトが特に最近はないかなと。

 サーバがそのままな限りそのまま残るであろうWebは、風雨にさらされて崩れ落ちてしまう建築やプロダクトよりも息が長そうに見えるが、全くそんなことはなくむしろ数年の間にスクラップ・アンド・ビルドされる。新しい技術が出てきて過去の技術で作られたものをすべて消し去ったあとで新しいものを作る。それもイデオロギーなく、興味でつくられることが大半だろう。Web Archiveの何がすごいかってそのくだらなさをイデオロギーで包んでしまっていることだと個人的には思う。

 先日から柳宗理のエッセイを読んでいるが、彼は「私という日本人が、日本に住み、日本のためにデザインしたものが日本的なのは当たり前」のように書いていた。ああ、そらそうだと思うが、Webにおいて日本的なと思えるものは楽天のサイトぐらいなんじゃなかろうか。プロダクトデザインにおいても過去そういう風潮を危惧しているのが開始数ページで見られる。産業革命から輸入されて、元々アメリカナイズされたやり方が入る。少しローカルに順応したところで、グローバルの波が入ってきてローカライズされてないデザインがでてくる。Webも全く同じ順序のハズだけど、ローカライズといえばなんのことはない言語のことだけだ。

 また、この映画において「公共空間」と「私的空間」の二項対立が見られたように思う。建築家の流れとしては「公共施設の設計」をしないと一流と認められないらしい。安藤忠雄は今でこそ様々な建築を作っているが、元々ずっと住居を作っていたので建築界では認められにくい存在だったようだ。磯崎新はこう言っていた「公共施設を設計することはまるで違う」と。

 

 それではその流れを持ってくるとして、Webにおけるpublicとはなんなのか。いやそもそもWebは誰からでも見られるからpublicな空間だよと、本当にそうだろうか。もっと広げて空間におけるpublicとはなんなのか、publicとはどういう状態なのか。なにが公共たらしめているのか。税金で立てればpublicなのか。誰かがそこに集えばpublicなのか。Yahoo!Japanは日本のWebにおける公共施設なのか。外務省のサイトは公共施設なのか。そこに行ける状態があればいいのか。公共交通機関における公共は大衆のことだ。大衆がおしよせるいつも作っているキャンペーンサイトは”公共”なのか。そういうことを考えながら床についていたらいつのまにか朝になっていた。