マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

鍵と鍵穴が合えば

 秘密の共有は楽しい。小学生のころの「帰ったらいつもの場所集合な!」って言って秘密基地に集まるような体験はしたことがあると思う。秘密基地じゃなくても駄菓子屋とか校舎の屋上の踊り場とかなんでもいい。そこですることはなんでもないこと、ガキがやることなんて大したことない。しかし、俺とお前たちしか知らないことで手を握り合う、いわば共犯関係だ。

 

 似たようなことをまだやってる。Twitterジャーゴンを投げかけ合うんだ。他人が読めば何を言ってるか分からないか、スルーをするだろう言葉で会話する。「山」「川」の暗号でツーカーの仲だと互いに認識する。それが気持ち良い。ああ、俺達は繋がっているんだ、同じ世界にいるんだと安心する。想像上のステレオタイプなヲタクがやっていそうなことをそのままやっている。それもほとんど皆。

 

 データベース消費なんて言葉を知った。東浩紀さんが書いた「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」を読んだ。いろいろと批評批判はあるみたいだが、僕は美味しいところだけをつっつくハゲタカかハイエナのような読み方をするので余り気にしない。まさに自分のデータベースと相手のデータベースを突き合わして、お互いが同じ文脈をたどっているのかどうかを確認する。Googleにこれこれを検索してくれと頼むのを、暗に人間相手にやっている。そこで返ってきた答えがドンピシャだと互いに握手をしてフレンドシップを深める。そういうことをやっている。物語など存在せず、流行り言葉などのキーワードだけが散在する無垢な空間が広がっている。ただ、我々のコミュニケーションはそれでよいのだ。

 

shirofvgt.hatenablog.com

 

このブログの下段から引用すると

どれだけ仲のいい友人といえど、付き合う時間が長かろうとも、自分がその人と共有できる経験の多くは、同質のものを他の誰かとも経験できる汎的なものばかりで、唯一無二のクリエイティブな経験っていうのはほとんど無いように思えてしまう。

 まさにここで、どうにかしてWeb上にそれをつくりあげようとしているのかもしれない。だから”気になる人”が買ったよとTwitterFacebookで言ったものを買い、私も繋がっている感覚を得る。実際に繋がってもそうでなくとも錯覚できればそれでよい。本当のコミュニケーションは殴りあって~なんてのはここで言うことはなく、ただ若い人たちは鍵と鍵穴でコミュニケーションを取るというだけのことなんだ。