マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

僕の僕

 

 他人から貰える自分のステレオタイプなイメージは大事にしている。僕に対してこの人はこういう役割を求めているんだなって、どういう時に一緒にご飯やら遊びやらを誘ってくれてんのかなって、そういうことが分かるから。僕に出会った場所で、そのステレオタイプなイメージは作られるのだけれど、Twitterの僕も、Facebookの僕も、このブログの僕も、実際に会った時の僕も全て違っている。いつ、どの僕に出会っても僕を楽しんでもらえたら非常に嬉しいなぁと思っている。

 このブログにおける僕はきれいな言葉で構築された僕で、書いていることに嘘偽りは無いが、それを成形するために時間軸を戻ることで少しずつレールが歪んでいることが僕には分かる。ただ、過去の僕が未来の僕のために書いている、記憶を取り戻すトリガーであればよいと前に書いた。僕が僕に当てた手紙であって、それは他人が見てわかることではないからレールが歪んでようが、他人にはこれが僕なんだ。

 Twitterの僕はかなりはっちゃけている。あそこは見られているということがリアルタイムに分かってしまう。つまり、露出狂にとっては天国のようなものだ。あそこにいることで、僕にも露出狂のような性分があるんだなとはっきりと理解できる。ただ、あそこはフォーマットに沿ったコミュニケーションに有利だから、場所としては僕はあまり好きではない。入り浸っているのは確かだが。

 Facebookの僕は綺麗なジャイアンと同じだ。自分の綺麗な部分だけを抽出し、さらに水と油を混ぜた後に上に上がってくる油の上澄みだけを掬い出して貼り付けたような僕がいる。喫茶店に行ったと書いているが、本当にそこで思ったことやそこまでにやったことなどは全て無視だ。結果だけが書かれている。本当はそうじゃない。結果に至るまでの過程で何が心に渦巻いたかの方が大事なのだ。あそこの僕は最も僕から遠のいている僕だ。

 実際の僕は、どんなんなんだろう。こればっかしは、僕は僕と対面できないから、上記3つを足しあわせた人間が僕なんだろうか。