マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

不快の境界線

 

 

東京に来てからはや7年。エスカレーターにおいてはすっかり「左側がゆっくりな人、右側が急いでいる人」という意識が定着してしまった。僕の実家がある広島では左右どちらに居てもいいし、別段その真ん中で立ち往生してても何も言われない。二人組が並んでいても「まぁ仕方ないゆっくり行こう」と思える。

まぁただ最近は東京の雰囲気にあてられた人が増えたのか、その意識が定着しつつある。

 

 

ルールを決められたとき、僕らはそのルールに従おうとする。

何故ならば明記されたルールの場合、それはジャッジする人がいるから違反した人がいたときには彼らが駆けつけて罰する人がいるからだ。それは公共の場なら警察官だったり、駅構内であれば駅員だったりと場所によって変わる。

 

ただ、そのルールが「暗黙の了解の範囲」だった場合は、どうだろう。

前述のエスカレーターの話は特にどこも書いてあるわけではなく、意識の刷り込み、さらには地域差があり、「雰囲気」に支配されたルールだ。郷に入っては郷に従う、誰がやり始めようと言ったわけじゃない、実は既に日本人の本能に近いものになっているのではないだろうか。

 

本能に近いからこそ、それが目の前で侵害されたときに不快感を得る。嫌な音を聞いた時と同じだ。嫌な光景を見た時、何故それを守らないのかと、憤慨してしまう。そういう人を東京に来てから沢山見てきた。

本能に対しては普通、疑問を抱かない。しかし上のルールは実質的に本能に近くても、本能ではない人間によって決められたものだ。何故、建物内の歩道は左側を進行方向におくのかを考えた時、それは車道がそうだというルールに則っているように感じる。そこに日本では車は何故左側通行なのか、という疑問は介在しない。左も右もどちらでも通って良いとなったらぶつかって事故が起きてしまうから、統一しようという話だ。ただそれが欧米と違って左なだけだ。歩道で人と人がぶつかっても因縁をつけられるくらいだ。車道がそうだから歩道もそうという暗黙の了解に既になりつつある。

 

 

 

エスカレーターに乗っている時の歩行を整備しようというこのルールは、不快なものを見出すルールになりつつある。すべてのルールはそれになる可能性はある。ただの不快の境界線にしてはいけない。